預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇5

 ダビデを殺そうと待ち伏せし、罠を張り巡らせている敵がいる。「だから彼らから私を守って下さい」という嘆きの祈りから、この詩は始まる。ダビデが狙われる理由、それはダビデが王という特別な権威・地位にあったからだ。それは私達一般人には無縁なことと思えるかもしれない。しかし、そうではない。何故なら、ダビデの王位は、神によって与えられた(神に選ばれ、油注がれた)ものであるからだ。その点、クリスチャンも、神によって与えられた「神の子」としての特権がある。そして、その私達の特権を奪い取ろうとする(何とかして地獄に道連れにしようとする、どうにかして信仰を失わせよう、捻じ曲げてやろうとする)敵がいるのである。そういう意味で、私達もダビデと全く同じ立場にあるということだ。決して無縁な、別世界の出来事ではないのである。その敵は、狡猾にも、様々な罠を張り巡らせ、手ぐすねを引いて待ち伏せしているのである。
 その罠の一つ、それが、異端の教えだ。それは『滅びをもたらす』とペテロは言う(Ⅱペテロ2:1)。しかも、それは、気付かない内に『密に』忍び込んで来るのである。まるで放射能のようにだ。対策は、避ける(近付かない)ことだ。その為には、線量計をもって厳密に測るしかない。信仰において、その役割を果たすのが「正しい聖書理解」である。それに照らし合わせて、どれくらい基準からオーバーしてるか(どれくらい危険か)を測るべきなのである。ところが、その基準が気付かない内に変えられてしまう場合がある。聖書は「キリスト以外に救いはない」と言うのに、「クリスチャンでなくても救われる」というような考え方が一部の人達の間に浸透している。そのような教えに近付いてはならない。離れ、避けるべきである。避けて、逃れる先は、主イエスの元だ。主の元に身を避けるなら、主が守って下さる。それを求めて、ダビデは叫び祈る、それがこの詩だ。
 へりくだって主に依り頼む主のしもべ(正しい者)を、主は愛の大盾で守って下さる。神の愛に包まれるなら、恐れ不安は消える。人生の、どんな問題、悩みが襲って来ようとも、びくともしない。神の愛の大盾ですっぽりと包まれることを求めよう。

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