預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

逆!(マタイ5:48)

マタイ5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。



 神と同じくらい完全になれ、と主は言われた。
 その為には、「右を打たれたら左も出さなければならない」し、「敵を愛し迫害する者のために祈らなければ」ならない。これは時にクリスチャンを苦しめ、未信者をつまづかせる教えだ


 そもそも人間が神と同じになれるわけがない


 では何故、そんな無茶なことをやれと主は言われるのか。
 一つの解説として、「『完全でありなさい』のギリシャ語は未来形であるから、将来の約束として受け取ればいいのだ」というものがある。
 確かに、将来、天国に入った時には、私達は、体も贖われ、もはや何の罪もない、完全な者に変えられる。素晴らしいことだ。


 しかし、それでは遅い。


 何故なら、天国には「右の頬を打つ」者はもはや存在しないからだ。迫害する者の為に祈れるのは、地上に居る間だけなのだ。そして、地上に居る間(罪の性質・肉を持つ身である間)は、不完全であり、だからこそ、パウロは、『うめきながら体の贖われるのを待ち望んでいる』と言うのであって、これはどう考えても根本的に無理のある教えなのだ。


 が、解決はある。肝心なのは20節『律法学者達の義に優る義でなければ決して天国には入れない』だ。どんな義かと言えば、「右を……」であり、「敵を……」であるわけだが、それらを全てまとめて言えば、『神のように完全になれ』となる。
 つまり主が言われたのは、「律法学者達のように、行ないによって救われようとするのなら、律法学者達程度の行ないでは、足りない。甘い。もっと上に行け」ということなのである。それぐらい(つまり、神と同じくらい完全になって)こそ、初めて、行ないによる義が達成されるということだ。そして、そんなことは無理に決まっている。主もそれは分かっておられた。だから十字架にかかり、信仰による救いの道を開いて下さったのだ。要するに、ここでの「無理難題」と思える教えは、実は、律法主義を否定する為のものであって、クリスチャンにそれを要求しているのではないのである。「主のくびきは軽く、心地良い」のだ。


 とは言え、それらの教えを無視するべきではなく、むしろ少しでも善が行えるようになることを求めるべきである。しかし、それらは決して必須の課題ではない。大切なのは、不完全な者を救って下さる神の恵みだ。


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