預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

若気の至り

パソコンの古いデータの深層フォルダを探ってみたら、若かりし頃に作り録音した音楽ファイルを多数見つけた。
聴き返してみたら、まあ、歌は下手くそだけど、サウンドはアグレッシブでナイーブ。
ハードロックあり、ダークなプログレあり、R&Bあり、カントリーロックありーの、もう、カオス。
30年前のキリスト教会には受け入れられなかったのは無理もないのかもしれない。
聴いてみたいなどと仰る方はいないとは思うが、リクエストにおこたえしないわけではない。
むしろ出来れば、聴かせたいかもしれなかったり。(;´д`)

自叙伝2

二冊目の自叙伝。2013年刊。
これは在庫あり。
て言うか、売るほど残ってる。
(売れ残ってるとも言う)
新品ご希望の方は、私にコンタクトを。

思てたんとちがう

2011年、東北は福島県いわき市から避難して、2年間は福岡の久留米市に住んだ。
住んでみて驚いた。
福岡は、
冬が寒い!
雪も降るし!


九州だから南国と思い込んでた。
もやもやっと、騙された感に包まれた。(誰も騙してないけど)
それでも、やっぱり夏は暑い。そこはさすが九州なのだ。

詩篇7

 6篇と同じく「嘆きの祈り」から始まっている。が、6篇とは違って7篇では、この苦しみは自分のせいではない、とダビデは言う。
 問題は、何故、神のしもべが、いわれなき苦しみを受けるのか、だ。「信仰を持てば、神が守って下さるのだから、苦しみに遭わないはず」と考える人にとっては、「神を信じても苦しむのなら、信じる意味がない。信じるのは無駄」ということになる。しかし聖書は『あなた方は、世にあっては患難がある』と教える。何故なら、全ての人は、神の愛と守り(エデンの園)の外側の世界(この世)に生まれ生きているからである。だから、この世には、病があり、戦争があり、飢餓があり、不幸がある。それが当然なのである。決して、神の愛が消えたのではない。神の愛は変わらない。ただ、罪が壁となり、断絶を生み出しているのである。しかし、信仰を持つなら、神との関係が回復し、断絶が取り除かれる。例えば、窓のない部屋の天井が取り除かれたようなものだ。天からの光(神の助け、愛)が注がれる。だから、確かに、信仰を持っても苦しみに遭うことがあるかもしれない。だからと言って、信仰は無意味ではない。主が盾となり、守って下さるのだ。
 『神は心の直ぐな人を救われる』とダビデは言う。それは、神に背く(曲がった)心を悔い改めて真っ直ぐにした人を救うということだ。一方、『神は正しい審判者』であり、必ず悪を裁く。それも『正しい神は心と思いを調べ』た上で、だ。つまり、悪は心と思いの中にある(神に逆らう心が悪の根源)ということである。『その暴虐は、おのれの脳天に下る』と聖書は言う。滅び、それが悪への報いだ。しかし、神を神とする正しい者には、命・天国を与える。たとえ地上の人生に苦しみがあったとしても、忠実な信仰者に神は報いて下さるのだ。その二つのどちらを選ぶか、それを選ぶのは自分自身だ。そして神は『あなたは命を選べ』(申命記30:19)と言われる。
 神は、誰に対しても、その人の選択に応えてくれる。救いを拒む者には、滅びを。救われたいと願う者には、命を与えて下さる。私達は、それを自分で選ぶことが出来るのだ。神に依り頼む(正しい道)を選ぼう。そうすれば、たとえ苦しみがあっても主が助けてくれる。

日曜は働くな? 2

じゃあ、牧師も休んでよかですか?