預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇7

 6篇と同じく「嘆きの祈り」から始まっている。が、6篇とは違って7篇では、この苦しみは自分のせいではない、とダビデは言う。
 問題は、何故、神のしもべが、いわれなき苦しみを受けるのか、だ。「信仰を持てば、神が守って下さるのだから、苦しみに遭わないはず」と考える人にとっては、「神を信じても苦しむのなら、信じる意味がない。信じるのは無駄」ということになる。しかし聖書は『あなた方は、世にあっては患難がある』と教える。何故なら、全ての人は、神の愛と守り(エデンの園)の外側の世界(この世)に生まれ生きているからである。だから、この世には、病があり、戦争があり、飢餓があり、不幸がある。それが当然なのである。決して、神の愛が消えたのではない。神の愛は変わらない。ただ、罪が壁となり、断絶を生み出しているのである。しかし、信仰を持つなら、神との関係が回復し、断絶が取り除かれる。例えば、窓のない部屋の天井が取り除かれたようなものだ。天からの光(神の助け、愛)が注がれる。だから、確かに、信仰を持っても苦しみに遭うことがあるかもしれない。だからと言って、信仰は無意味ではない。主が盾となり、守って下さるのだ。
 『神は心の直ぐな人を救われる』とダビデは言う。それは、神に背く(曲がった)心を悔い改めて真っ直ぐにした人を救うということだ。一方、『神は正しい審判者』であり、必ず悪を裁く。それも『正しい神は心と思いを調べ』た上で、だ。つまり、悪は心と思いの中にある(神に逆らう心が悪の根源)ということである。『その暴虐は、おのれの脳天に下る』と聖書は言う。滅び、それが悪への報いだ。しかし、神を神とする正しい者には、命・天国を与える。たとえ地上の人生に苦しみがあったとしても、忠実な信仰者に神は報いて下さるのだ。その二つのどちらを選ぶか、それを選ぶのは自分自身だ。そして神は『あなたは命を選べ』(申命記30:19)と言われる。
 神は、誰に対しても、その人の選択に応えてくれる。救いを拒む者には、滅びを。救われたいと願う者には、命を与えて下さる。私達は、それを自分で選ぶことが出来るのだ。神に依り頼む(正しい道)を選ぼう。そうすれば、たとえ苦しみがあっても主が助けてくれる。

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