預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇8

 宇宙の余りの壮大さのゆえに『人とは何者なのでしょう』とダビデは言う。よく言われるように、広い宇宙から見れば人間など、踏みつぶしても気付かない虫のようにちっぽけな者なのである。なのに神は、気付かないどころか、『これを心に留め、顧み』て下さった、というのだ。なんという恵みだろうか。その恵みの大きさについてダビデは言う。『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれ』たと。これは、人間が造られた時のこと(創世記1:26~28)を指している。確かに、神に似た(神に比べれば劣る)者として人間は造られたし、『全てを支配せよ』と神は人に言われた。だが、それにしてもダビデは、言い過ぎではないか、と感じる。『神よりいくらか劣る』と言うよりも、「かなり劣る(神のように全能ではない)」し、栄光と誉れは神のものではないだろうか。そして『万物を彼の足の下に置かれた』ということの成就を私達は未だに見ていない。
 実はこれは、人間が造られた時のことを指すだけでなく、キリストのことを預言的に語っていたのだということがヘブル2:6~9で明かされている。要するに、詩篇8:4~8は、キリストの十字架による罪の赦し(救いの道を開く、という福音)を預言していたということなのだ。それゆえ、万物を彼(キリスト)の足の下に置いた、というわけなのである。つまり、キリストこそ主の主、王の王ということだ。ゆえにダビデは、神の偉大さを称える言葉でこの詩を始め、同じ言葉で締めくくる。その偉大なる神の御手の業(宇宙)を見てへりくだり、神を自らの王とせよということ、それがこの詩のメッセージだ。
 それに対して、自分の栄光を求め、自らを王とする(神に敵対する)者を黙らせるために「幼子の口に賛美を置いた」ということがマタイ21:15~16で起きている。それが詩篇8:2の預言の成就だ。
 私達も、自分の栄光を求める思い・心を鎮めるために、神の偉大さを賛美しよう。ちっぽけな者を心に留め、顧みて(救いの道を開いて)下さった神の前にへりくだり、神の国とその義とを第一に求めよう。そうすれば恵みはついてくる。

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