預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

聴けます!

いつも自分の説教を録音していて、あとで必ず聞く。客観的に、どこが良かったか、どこが良くなかったか、どこをどうするべきだったかを自分の学びとするためだ。
昔、ロックギタリストだった頃も、そうして自分の演奏を聴き直すのが常だった。それをするかしないかで成長の度合いが変わるからだ。
自己満足ではなく、第三者的な感覚で判断する事が大事だ。
勿論、自分で楽しめないものを他人が楽しめるわけはないし。


さて、今週の日曜の説教。面白くて、もう4回も聞いた。
自分の説教をその週のうちに4回も聞く人いるかなあ。


お聞きになりたい人は、うちの教会のウェブサイトからどうぞお聞き下さい。^_^

哀愁の・・・

いつ頃からか、どうもおかしいとは思っていた。衰えたな、とも。
エリック・クラプトンだ。
しかし、それは単なる老化によるものではなく、なにやら体の不調でギターが思うように弾けなくなってるらしいという事を知った。
ジェフ・ベックは全然衰えてないのに残念だ。


昔の(クリームの頃の)クラプトンは憧れだった。まさにアイドル(偶像)で、髪型(カーリーヘア)も服装も真似をした。ギターもあれぐらい上手くなりたかった。
「クラプトンはゴッドって呼ばれてたから、オレはジーザスや! オレをジーザスと呼んでくれ!」と若い頃には見栄を張っていた。(その頃はまだクリスチャンではなかったので)
日本に初来日したのが1974年か。その次の年から毎年続けてコンサートに行った。
けど、10年ぐらいして行かなくなった。
レコードも欠かさず買ってたけど、やがて買わなくなった。最後に買ったのは「ピルグリム」かなあ。それ以降のアルバムは、聞いても、一回聞いたらお終いって感じになってしまった。もはやロックを感じなくなったからだ。
今もファンの方には申し訳ないが、クラプトンには全く興味を失ってしまっていた。


かつては「いつ死んでもおかしくない」ミュージシャンのトップクラスにランクされていたのに、よく死なずに、生きてくれたものだとは思うが。
ジャック・ブルースは先に死んでしまった。ジンジャー・ベーカーもかなり弱っている。そう言えば、ダニー・カーワンが去年亡くなっていたらしい。ピーター・グリーンでもまだ生きてくれているのに。レオン・ラッセルも死んでた。


黄金の時代は確実に終わって行く。寂しく物悲しいものだ。


『いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です』(聖書)

詩篇16

 土地の分割に使う「測り綱」(巻き尺の代わりのもの)が、自分の好む所に落ちた(その土地が自分のものになった)というのだが、どんな土地を好んだのだろうか。悪い土地を好む人はいない。例えばロトは、豊かな土地を選んだ。しかし、人間的な目で見た「良い土地・条件」は、必ずしも良いとは限らない。それはロトの結末を見ればわかる。だから聖書は言う。「全てのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」と。
 ダビデが「私の好む所」と言っているのは、実際の土地ではなく、神ご自身(神が相続地)である。神ご自身を相続地とする、それは、レビ族と同じだ。イスラエル12部族が相続地を分割した時、レビ族には土地が与えられなかった。それは人間的には不公平に思える。しかし、レビ族には何も与えられなかったのではない。神の愛、喜び、平安、天の御国も、全てを相続地として受けたのだ。それはレビ族が、神に仕えることに専念する、ということを務めとしたゆえである。つまり、ダビデが「良い土地を手に入れた」と言うのは、人間的な欲望が叶えられた、ということではないのだ。神に仕えることを「自分の好むこと」とする、それが本当に良いものであり、その人は、神の全てを相続する。それは必ずだ、ということなのである。
 そして、8~11節は使徒2:25~28に引用されているのだが、そこでペテロが「この詩篇はキリストの復活の預言であった」と言っているように、キリストの復活によって与えられる永遠の命(それが自分の相続地)それを「私の好む所」とせよ、ということ、それが、この詩の中心メッセージだ。
 私達は、神の子として、神の国を相続地として受けるが、それを「私の好む所」としているかどうかが問題だ。「この世の豊かさ」を自分の相続地とするべきではない。誘惑はあっても、神の国を相続することを喜ぼう。その為に、詩篇16:1~2の、ダビデの祈りと告白を自分のものとしよう。私の幸いは主のほかにはない、と。
 天国以上に素晴らしい「ゆずりの地」は無い。それを手にしているのだから、「測り綱は私の好む所に落ちた」と言える者であろう。

近日発売!

一般の出版社から近日発売予定の新著(聖書の解説本)の本文の編集・校正が終わり、タイトルも決定し、著者紹介、本の紹介の文章も出来上がり、あとは表紙のデザインだけ。ただいまデザイナーさんが考案中。いくつかの材料(キーワード、画像)は提示したけど、それらが使われるのか、全く予想外のものが出て来るのか、楽しみだ。
早ければ、今月中には発売になるかも。こうご期待。

詩篇15

 神に従って生きる(正しく歩み、義を行う)人、『その人は』こんなことをしない、と3~5節まで続く。つまり、それが信仰者の生き方だ、ということである。そして、その人は『決してゆるがされない』。
 具体的には、どんな生き方をするというのか。まず「利息を取らない」。ということは、貸した分は返してもらっていい、ということになる。が、主は「平地の説教(山上の垂訓に類似した教え)」で「返してもらうつもりで貸すな」(ルカ6:34)と言われているのだ。また詩篇では『損になっても、立てた誓いは変えない』とある。そう、誓いは(約束も)積極的に守るべきだ。しかし、主は「決して誓うな」(マタイ5:34)と言われた。これらの食い違いは、どうすればいいのか。もっと腑に落ちないのは、『神に捨てられた人を、その目はさげすみ』という詩篇の言葉だ。そもそも、神は人を見捨てるお方か。主は『あなた方を捨てて孤児とはしない』とおっしゃたのではないだろうか。勿論、神を信じない者は最終的には裁かれる。それは仕方のないことだ。しかし、そんな未信者を蔑むのが信仰者の生き方なのか。いや、神は、そんな滅ぶべき罪人を憐れまれたのではないか。
 詩篇と福音書、どちらも「聖書」である。なのに、この食い違いはどうだろう。どちらが正しいのか、と惑うが、どちらも間違い、ではない。と言うのは、山上の垂訓における主の言葉(マタイ5:20~48)は、行いの正しさで救われようとするならここまで完全にやれ(返してもらうな、誓いは果たせ)ということであり、それを行うことを要求しているのではないのだ。要は、恵みによって救われよ、ということだ。
 そこで詩篇の言う「信仰者の生き方」が意味を成す。「貸したお金を返してもらわない」という完全な行いは出来ないが、利息は取らない。それで良し、ということだ。約束は守れないことがあっても、約束そのものを誤魔化さない。そして何より、神は、見捨てない。その部分は新共同訳で『主の目に適わない者(英語では「下劣な者」)を退け』とある通り、霊的に同調しないということだ。結局、決して崇高な生き方でなくていい、完全な者になれなくていい、ごく普通に、真っ当に生きる、それが信仰者の生き方だということである。