預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇16

 土地の分割に使う「測り綱」(巻き尺の代わりのもの)が、自分の好む所に落ちた(その土地が自分のものになった)というのだが、どんな土地を好んだのだろうか。悪い土地を好む人はいない。例えばロトは、豊かな土地を選んだ。しかし、人間的な目で見た「良い土地・条件」は、必ずしも良いとは限らない。それはロトの結末を見ればわかる。だから聖書は言う。「全てのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」と。
 ダビデが「私の好む所」と言っているのは、実際の土地ではなく、神ご自身(神が相続地)である。神ご自身を相続地とする、それは、レビ族と同じだ。イスラエル12部族が相続地を分割した時、レビ族には土地が与えられなかった。それは人間的には不公平に思える。しかし、レビ族には何も与えられなかったのではない。神の愛、喜び、平安、天の御国も、全てを相続地として受けたのだ。それはレビ族が、神に仕えることに専念する、ということを務めとしたゆえである。つまり、ダビデが「良い土地を手に入れた」と言うのは、人間的な欲望が叶えられた、ということではないのだ。神に仕えることを「自分の好むこと」とする、それが本当に良いものであり、その人は、神の全てを相続する。それは必ずだ、ということなのである。
 そして、8~11節は使徒2:25~28に引用されているのだが、そこでペテロが「この詩篇はキリストの復活の預言であった」と言っているように、キリストの復活によって与えられる永遠の命(それが自分の相続地)それを「私の好む所」とせよ、ということ、それが、この詩の中心メッセージだ。
 私達は、神の子として、神の国を相続地として受けるが、それを「私の好む所」としているかどうかが問題だ。「この世の豊かさ」を自分の相続地とするべきではない。誘惑はあっても、神の国を相続することを喜ぼう。その為に、詩篇16:1~2の、ダビデの祈りと告白を自分のものとしよう。私の幸いは主のほかにはない、と。
 天国以上に素晴らしい「ゆずりの地」は無い。それを手にしているのだから、「測り綱は私の好む所に落ちた」と言える者であろう。

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