預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇15

 神に従って生きる(正しく歩み、義を行う)人、『その人は』こんなことをしない、と3~5節まで続く。つまり、それが信仰者の生き方だ、ということである。そして、その人は『決してゆるがされない』。
 具体的には、どんな生き方をするというのか。まず「利息を取らない」。ということは、貸した分は返してもらっていい、ということになる。が、主は「平地の説教(山上の垂訓に類似した教え)」で「返してもらうつもりで貸すな」(ルカ6:34)と言われているのだ。また詩篇では『損になっても、立てた誓いは変えない』とある。そう、誓いは(約束も)積極的に守るべきだ。しかし、主は「決して誓うな」(マタイ5:34)と言われた。これらの食い違いは、どうすればいいのか。もっと腑に落ちないのは、『神に捨てられた人を、その目はさげすみ』という詩篇の言葉だ。そもそも、神は人を見捨てるお方か。主は『あなた方を捨てて孤児とはしない』とおっしゃたのではないだろうか。勿論、神を信じない者は最終的には裁かれる。それは仕方のないことだ。しかし、そんな未信者を蔑むのが信仰者の生き方なのか。いや、神は、そんな滅ぶべき罪人を憐れまれたのではないか。
 詩篇と福音書、どちらも「聖書」である。なのに、この食い違いはどうだろう。どちらが正しいのか、と惑うが、どちらも間違い、ではない。と言うのは、山上の垂訓における主の言葉(マタイ5:20~48)は、行いの正しさで救われようとするならここまで完全にやれ(返してもらうな、誓いは果たせ)ということであり、それを行うことを要求しているのではないのだ。要は、恵みによって救われよ、ということだ。
 そこで詩篇の言う「信仰者の生き方」が意味を成す。「貸したお金を返してもらわない」という完全な行いは出来ないが、利息は取らない。それで良し、ということだ。約束は守れないことがあっても、約束そのものを誤魔化さない。そして何より、神は、見捨てない。その部分は新共同訳で『主の目に適わない者(英語では「下劣な者」)を退け』とある通り、霊的に同調しないということだ。結局、決して崇高な生き方でなくていい、完全な者になれなくていい、ごく普通に、真っ当に生きる、それが信仰者の生き方だということである。

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