預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇14

 1~3節は、ローマ3章で引用されているように「全ての人は罪に捕らわれている」ということを言っている。皆が不法を行っている、ということだ。で『不法を行う者らは誰も知らないのか』と続くが、ここで詩人は、何を言いたいのか。不法を行う者らが「知らない」のは「何」か。とにかく、彼らは、何かを知らないがゆえに、主の民を食い物にし、偶像に拠り頼んでいる、と言うのだ。続く5節に『見よ。彼らが、いかに恐れたかを』とあるが、これは『そのことのゆえに、大いに恐れるがよい』という新共同訳が良い。つまり、不法を行う者らが「何か」を知らないがゆえに主の民を食い物にし、偶像に拠り頼んだ、そのことのゆえに大いに恐れるがよい、ということだ。何故なら、神は神の民と共におられ、『主が彼の避け所である』のだからだ。
 この4~6節は、実は「出エジプト」のことを言っている。エジプトはイスラエルを奴隷として(主の民を食い物にして)いた。しかし、神はイスラエルと共にいて、彼らの避け所となり、彼らの家には災いが来ないように(過ぎ越し)された。そしてついにイスラエルは自由の身となったのである。そのことを「知らないのか」と言うのだ。つまり、不法を行う者らは「主が、御自身の民を解放して下さる方、自由にして下さる方、約束の地に導き入れて下さる方である」ことを知らないのか、ということだ。知らないから不法を行っている、と。
 それを知る(悟る)人を神は探す。昔(ソドムの時、ノアの洪水の時、バベルの塔の時)そうであったように、今も、悟りのある(神を尋ね求める=真理であるキリストと、その教えの真理を求める)者を神は探す。そして神は『神を求める者に報いて下さる』お方である。
 エジプトで虜となっていたイスラエルを、神は元の所に返した。それが、かつての「出エジプト」だ。が、その救いが来ますように、と過ぎたこととしてではなく、これからのこととして語られているのだ。何故なら、神は今も生きて働いておられるからだ。力ある御業をなし、不思議な助けを与えて下さる。だから、その時が来たら喜べ、楽しめ、と詩人は言うのである。たとえ今、何かに捕らわれ苦しめられているとしても、必ず解放の時が来る。そのことを信じて主を呼び求めよう。

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