預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇13

 『いつまでですか』と、4度叫ぶ詩人。苦しみの中での呻きのような祈り。それが、この13篇である。そのような姿は「信仰の勇者」には見えないかもしれない。しかし、果たして、苦しむことは不信仰なのか。信仰者はいつでも弱みを見せず、強く雄々しくあるべきか。確かに聖書は「いつも喜び、全てのことに感謝せよ」と教えている。だが、ダビデは「またか」と思うほど嘆いているのだ。詩篇9:18では「神に見捨てられることは決して無い」と確信を表明しながら、13篇では『私を永久にお忘れになるのですか』と悲観的になっている。
 そのような「浮き沈み」は、多少なりとも誰にでもあるのではないだろうか。例えば、不安になったら祈って平安を取り戻すし、癒されたと思ったら、また他の病気になる、というようにだ。信仰の歩みというものは、決して単調な、平坦な、真っ直ぐな道ではないと言える。中には、ジェットコースター並みの急降下、急旋回、という人生を経験する人もいる。しかし、ジェットコースターは、ついには、ゆっくりと、元に戻ってくる。その時の安堵感は筆舌し難い。
 ダビデも、浮き沈みはあった。けれども、悩み・嘆きの果てに辿り着いたのは「主への信頼」だ。最後には、やはり、元の所(主への信頼)に戻ってくるのである。そこに勝利がある。人生も、紆余曲折あっても、最後には神への信頼に辿り着くことが必要だ。そうであってこそ、「苦しみにあったことは幸いでした」ということが出来る。
 ダビデが主への信頼に辿り着けた理由、それは『主が豊かにあしらわれたゆえ』だ。「あしらわれた」(ヘブル語のガーマル)は、熟させる、完全に乳離れさせる、という意味に使われる。つまり、主がダビデを成熟させて下さったから戻ってこれた、ということだ。
 『いつまで』と何度叫ぼうが答えない神。そんな時に何に拠り頼むことが出来るか。ダビデは、神の恵みに拠り頼んだと言う。神は、愛するがゆえに、更なる恵みを与えるために、その子を懲らしめるということをダビデは知っていたのだ。だから、そこに拠り頼んだ。それゆえ成熟し、主への信頼に辿り着いた。私達も今、暗闇の中にあったとしても、主は恵み深い、という事実に拠りかかって、支えを得よう。

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