預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇44:1~8

 一読した限り、敵と戦って勝利出来たのは神のおかげだ、というようなことが書かれていると思われる。確かにイスラエルは数々の戦いを神の力によって勝利した。だから? 聖書は私達にも「勇ましく戦え」と勧めているのだろうか。
 確かに、人生は戦いだ。しかし、それは決して隣人との戦いではないし、隣国との戦いでもない。罪と死、この世の闇の力との戦いであり、神に従うか肉に従うか、天国か地獄かの戦いである。その戦いに勝つには神に頼れということ(すなわち、福音による救い)のモデル、それが旧約聖書なのである。特に2~3節は、イスラエルが約束の地を手に入れた時のことであり、それは神ご自身の御業であるということが語られている。決して、人が自分の力で手に入れた地ではないということだ。そして、その約束の地は、この世ではカナンという土地であるが、それは飽くまでもモデルであって、本当の約束の地は「天の都」である。それはまさに神御自身の御業(御計画)であり、人が自分の力(行いの正しさ、律法主義)で手に入れられるようなものではない。恵みのゆえに、福音によって救われるのだ。そして、それを信じることの出来るようにと聖霊による促しさえも与えて下さる。全て、神の恵みである。
 なぜ、神は、そこまで恵みを与えて下さるのか。それは、神が人を愛したからだと3節は言う。ただし、誤解してはならない。この『愛した』は、ヘブル語の「ラーツァー」であり、喜んだ、受け入れた、という意味の言葉だ。つまり、神を信じ従う者を神は喜んで受け入れた。だから彼らは天国に入れるということなのである。
 ヨハネ3:16の、神が世を「愛した」は、不定過去形(アオリスト)、すなわち、神は「過去に一度だけ全ての人に愛を示した」ということであり、それこそが十字架である。その十字架を信じ受け入れるなら、なお更に神の愛に包まれる。が、拒むなら、裁かれる。
 とにかく、人生は戦いであり、勝利は天国である。その勝利を得るためには、自分の力(人間的なやり方)に頼るのではなく、神に頼れということだ。そのようにして神の愛に包まれて、信仰の道を歩もう。

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