預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇44:9~26

 イスラエルは神の力に頼って様々な戦いに勝利した。それゆえに『御名をとこしえにほめたたえます』と8節で結ばれた。『それなのに』神に見捨てられた、と9節から16節は言うが、それはイスラエルが神により頼まず、他の神(偶像)を頼みとしたからである。つまり、イスラエルが神に見捨てられたという事実(殆どの人が約束の地に入れず荒野で死んだことや、バビロン捕囚、エルサレム崩壊等)は私達への戒めであり、今ももし自分の力で救われようとする(神以外のものに頼る、古い皮袋=律法主義に戻る)なら裁かれるということだ。
 さて、イスラエルは、自分達は神を忘れてなどいない、と弁解するが、それは通用しなかった。たとえ、神を忘れはしていない(信じてる)としても、神に頼らなかったのであり、それで良しとはされないということなのだ。
 そこで23節から救いを求める祈りとなるが、その中で「神よ、何故、私達を見捨てるのですか」と訴えられている。何故……、それはイスラエルが神により頼まなかったからだったはずだ。そもそも、神に頼らずして(自分の力で)約束の地に入ることは出来ない、それがこの詩を通して受け取るべき神からの中心的なメッセージなのだ。ところが人間は、すぐに自分の力に頼ろうとする。律法主義(古い皮袋)に戻ろうとする。初代教会にも、ユダヤ化(割礼、律法順守)を主張する人達がいたが、使徒達は、それは良くないと決議した(使徒15~16章)。そしてパウロは「神の恵みを無駄にしないで」と懇願して言う。せっかく、十字架によって「行いによらず信仰によって救われる」道が開かれたのに、その上で行い(律法)に頼るなら、それは神の恵みを無駄にすることだ。なのに、今も、キリスト教をユダヤ教化させようとする人がいる。同じ過ちが何度も繰り返される。だから、そんな考え方(神以外のもの、行い、律法に頼ろうとする心)から救い出して頂かなければならないのである。26節にある通り「神の恵みの為に」だ。神の恵みを無駄にしてしまわない為に、私達は、ただ神を忘れないだけでなく、神に頼る者であり続けたい。そのようにして、人生の勝利である約束の地(天国)へと神に導かれて入る者となろう。

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