『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか』…それは、神に絶望する必要は無い、ということである。何故なら、神の裁きは公正であるからだ。ゆえに詩人は『欺きと不正の人から私を助け出してください』と訴える。詩人の周りには、欺く人、不正な人が取り巻いていたのだろう。いやむしろ、この世自体が、欺きと不正に満ちていると言うべきなのかもしれない。しかし、失望する必要は無い。神は公正な裁きをして下さる。その究極は、世の終わりの最後(白い御座)の裁きだ。全ての人が神の前に連れ出されて、その行いに従って裁かれるのである。それは誰も逃れることが出来ない。もう一つの公正な裁き、それは、人は必ず一度死ぬ、ということである。これは全ての人に平等に来る。どんな金持ちも、権力者も、王様も、逃れることは出来ない。悪者(罪ある者)にとって、そのような裁きは、恐怖であり、苦しみだ。しかし、正しい者(キリストを信じて義とされた者)にとって神の裁きは、救いであり、報われる時なのである。神は、罪人を地獄に落とすことが出来るし、悔い改めた者を神の子として下さることさえ出来る『力の神』なのだ。
確かに、この世においては、神に見捨てられたと思うほどの苦しみ、失望…を感じるかもしれないが、それは決して真実ではない。そんな時にこそ、真理の御霊によって、「神は見捨てない」という真実に導かれることが必要なのである。
そのようにして、絶望を感じる時も、御霊によって光を見出し、立ち上がって「神の御もと」に行くと詩人は言う。そこが『最も喜びとする』所なのだ。それは地上では、神の宮における礼拝であるが、いつかは地上を去る時が来る。それでも最上の喜びは失われはしない。いや、その時こそ本当の「最上の喜び」すなわち、天の都(神の御もと)に行き、神を崇める時の始まりなのだ。その信仰(確信)をもって歩もうと、この詩は指し示すのである。そうすれば、もはや、絶望する必要は無い。何故、絶望しなければならないだろうか。『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い。私の神を』
これこそが、自らの心の葛藤に対する解決である。
魂が渇いて命の水を慕い求めていた詩人は、言わば霊的断食状態の中で断食の明ける日を期待しているのかと思えば、なんと、絶望していると言うのだ。「何故?」と詩人自身、自らに問いかける。それは、絶望している理由を聞きたいのではない。「絶望する必要はないでしょ?」と主張している、それが「何故?」だ。だからこそ『私はなおも神をほめたたえる』と言うのである。さすがは信仰者、と思いたいところだが、続く6節で、またしても『私の魂は御前に絶望しています』と言う。やはり、絶望しているのだ。
ただ、絶望したから信仰を捨てるとは言っていない。確かに、絶望はしている。けれども「それゆえ神を思う」と言うのである。決して理想的な環境ではない、それどころか荒野(苦しみの中)でも、神に会えないわけではない、神を思うことが出来るということだ。そして、絶望の中にあっても、神の憐みと守りはある。その中で神を思う時に神の恵みを知ることが出来るし、何よりも大事なことを確認するのである。それは「神こそ私の命」だということだ。たとえ全てを失ったとしても、命である神がおられるということに気が付くことが大切なのだ。その為に、絶望の中でこそ神を思うことが必要なのである。
続いて『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか』と嘆きは続く。「神に見捨てられた」と思えるほどの絶望感。この世のことについては、そういうことがあるかもしれない。どんなに頑張っても状況は悪くなる一方。苦しみが続く。裏切られる。先が見えない。詩人は全く失望している。けれども、神に絶望しているわけではない。いや、神に絶望してはいけないのだ。それゆえ『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか』との言葉が再び繰り返される。「絶望する必要はない」ということだ。それが悩みの末の決着であり、解決であり、結論である。むしろ『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を』だ。
だから、涸れた谷に失望していた人は神を待ち望め、ということである。この世において絶望の時にこそ、なおも神を待ち望もう。そして、教会に豊かに命の水が溢れ流れることを祈り求めよう。
私の魂は渇いている、と詩人は言う。命の水(霊的栄養=賛美、祈り、礼拝)が足りないのだ。それは、荒野を逃げ惑っているという状況だから無理もないことだ。だから「いつになったら思う存分、礼拝出来るだろうか」と、エルサレムにいた頃の礼拝の満足感などを思い出しながら、それが出来ない今の魂の渇き(胸の内、その苦しさ)を訴えているのである。よく言われるように「失ってみて初めて、その大切さに気付く」ものである。しかし「礼拝出来る環境」は失ってからではなく、失う前に、その大切さに気付いて守る必要がある。
さて、鹿(女性名詞が使われているゆえ、雌鹿)が谷川の流れを慕いあえぐ、という訳だが、雌鹿は水飲み場などでは格好の餌食である。それでも生きる為には水を飲まなければならない。それと同じように、私達の魂も、命の水を慕いあえぐ。どれほどの厳しい状況でも、生きる為には神が必要なのである。少しくらいの妨げがあるからと言って諦める訳にはいかない。命を懸けて求めるくらい必要だということである。事実、信仰には命が懸かっている。永遠の命か、滅びか、だ。命の源である神を失うことは、命を失うことに等しい。だから主は言われた。心の貧しい(魂の渇いていることに気付く)者は幸い、と。
興味深いのは、新共同訳『涸れた谷に鹿が水を求めるように』だ。つまり、水を飲もうと思って谷へ行ってみたら涸れてた。そこで「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、だというのである。命の水を提供すべき教会が、そんな涸れた谷のようであってはならない。が、現実はどうか。勿論「真理の御言葉」(例えば「赦しなさい」など)は語られるだろう。しかし、その「御言葉の真理」(悔い改めたなら……であること)が語られないなら、それは涸れた谷に等しいのではないか。鹿は水を飲めないまま、疲れ果て、死んでしまう。
生ける神(その真実な教え)は、信じる者を生かす。自由にする。休ませる。「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、私達も、生ける神を、魂を潤して下さる神を求めよう。そして、心の奥底から生ける水の川が溢れ流れ出るようになることを求めて、聖霊なる神で満たして下さい、と慕い求めよう。
聖書は、ある特定の、時代・宗教的背景・政治的状況の下で書かれているということを踏まえて読まなければ、正しく理解することは出来ない。例えば、主は弟子達を伝道に遣わす際「神の為に働く者が食べ物を与えられるのは当然」と言われた。それは、ユダヤ(単一宗教社会)においてこそ、のことであり、今の日本では当然ではない。また「父母を敬え。そうすれば地上で長生きする」(エペソ6:2~3)という約束も、ユダヤの律法に「親に逆らう子は殺せ」(申命記21:18~21)とあるがゆえ、親を敬えば殺されずに済む(地上で長生き出来る)のであり、それが「約束の伴う教え」だということである。
同じように、「弱い人に心を配れ」ということも、ユダヤ社会の中に暮らす(それがユダヤ人でなく、在留異国人でも)弱い人を虐げるな、ということ(申命記24章)である。何故なら、ユダヤ人自身がエジプトで奴隷として虐げられた経験があるからだ。だから、そのつらい状況がわかるだろ? ということである。
そういう訳で『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は』という、この詩編の言葉は、世界中の弱い人を…ではなく、主の集会(ユダヤ社会…に相当する教会)の中の弱い人を思い遣るようにということであり、その人は幸いなのである。ダビデも、そのような人だった。
ただ、それでもダビデは病気か何かで苦しんでいた。身近な者に裏切られもした。それはキリストに重なる(9節)。しかし、神に助けを求める。『そうすれば私は、彼らに仕返しが出来ます』と言う。この「仕返し」は、ヘブル語の「シャローム」(平和)だ。つまり、そこに敵意が存在しなくなることを期待するということだ。キリストも、まさに、裏切られ苦しみを受けたが、神によって立ち上がらせられ、信じる者と神との間の敵意が取り除かれるようにして下さった。
最後にダビデは『誠実を尽くしている』と言う。神の前に罪を犯した、と自ら告白しているのに、だ。確かに、決して立派な人間ではないかもしれない。それでも、神に向かい合うのをやめない、神の前から逃げない、神の語り掛けを受け止める、悔い改める、ということにおいて誠実なのだ。私達も、そのようにして、心の平和を保とう。
嘆き一辺倒という訳ではない。記念でもない、アルファベット詩でもない。では、教訓? 預言? この詩は何か。
1~2節は、救いの表現である。私達も、これとほぼ同じプロセスを通る。主を呼び求めて(底無し沼から引き上げられるように)救われるのだ。救いは、自分の行い、努力、修行などにはよらない。救い主によって救われるしか救われないのである。そして救われたら、その人の人生は確かなものとなる。素晴らしい主の恵みだ。
そのようにして、私達の口に「賛美が授けられた」(神を賛美する者へと変えられた)と3節。その証を見て、父なる神が崇められる。
続いて『幸いなことよ』と4節。主に信頼すると共に、変な方に行かなかった人が幸いだ、と言うのだ。変な方とは? まず「高ぶる」ということ。クリスチャン(主に信頼する者)であるのに、祈らない(神など無用だ、自分で何でも出来るという姿勢)、それが高ぶりである。もう一つは「偽りに陥る」。主に信頼しつつも間違った教えを受け入れてしまうということだ。それは教える側に責任があるのだが。だから、そのような教えを聞かずに済む(守られる)なら、それはいかに幸いか。ゆえに「主の御計りは述べ尽くせない」と5節。幾らでも言える。すなわち、神の偉大さ、栄光を宣言する「礼拝」は尽きないということだ。しかし「神は、儀式的・形式的な礼拝を喜ばない」と6節。それゆえ神は「私の耳を開いて下さった」と詩人は言う。つまり、真理を聞く耳を持つこと、それが神の喜ぶことだという訳である。主も、聞く耳のある者は聞きなさい、と何度も言われた。真理抜きの形式だけの礼拝を神は喜ばない。それを悟った詩人は「心を尽くして…神を愛せ」と『巻物の書』(聖書)に書かれていたことを思い出し、宣言する。高ぶりや偽りの教えに向かわないために、この大事なことを語り伝えると。真理を聞く耳を持つことが必要だ、と。
助けて下さい、という11節の祈り、その祈りの理由は12節だ。それを新約的に言えば、絶望的なほどに敵に取り囲まれている(Ⅰペテロ5:8参照)ということだ。だから「主よ、守って」と祈るのだ。私達も、神の助けを得て、霊・魂が守られるように(Ⅰテサロニケ5:23)と願おう。