預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇42:1~4

 私の魂は渇いている、と詩人は言う。命の水(霊的栄養=賛美、祈り、礼拝)が足りないのだ。それは、荒野を逃げ惑っているという状況だから無理もないことだ。だから「いつになったら思う存分、礼拝出来るだろうか」と、エルサレムにいた頃の礼拝の満足感などを思い出しながら、それが出来ない今の魂の渇き(胸の内、その苦しさ)を訴えているのである。よく言われるように「失ってみて初めて、その大切さに気付く」ものである。しかし「礼拝出来る環境」は失ってからではなく、失う前に、その大切さに気付いて守る必要がある。
 さて、鹿(女性名詞が使われているゆえ、雌鹿)が谷川の流れを慕いあえぐ、という訳だが、雌鹿は水飲み場などでは格好の餌食である。それでも生きる為には水を飲まなければならない。それと同じように、私達の魂も、命の水を慕いあえぐ。どれほどの厳しい状況でも、生きる為には神が必要なのである。少しくらいの妨げがあるからと言って諦める訳にはいかない。命を懸けて求めるくらい必要だということである。事実、信仰には命が懸かっている。永遠の命か、滅びか、だ。命の源である神を失うことは、命を失うことに等しい。だから主は言われた。心の貧しい(魂の渇いていることに気付く)者は幸い、と。
 興味深いのは、新共同訳『涸れた谷に鹿が水を求めるように』だ。つまり、水を飲もうと思って谷へ行ってみたら涸れてた。そこで「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、だというのである。命の水を提供すべき教会が、そんな涸れた谷のようであってはならない。が、現実はどうか。勿論「真理の御言葉」(例えば「赦しなさい」など)は語られるだろう。しかし、その「御言葉の真理」(悔い改めたなら……であること)が語られないなら、それは涸れた谷に等しいのではないか。鹿は水を飲めないまま、疲れ果て、死んでしまう。
 生ける神(その真実な教え)は、信じる者を生かす。自由にする。休ませる。「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、私達も、生ける神を、魂を潤して下さる神を求めよう。そして、心の奥底から生ける水の川が溢れ流れ出るようになることを求めて、聖霊なる神で満たして下さい、と慕い求めよう。

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