預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇41

 聖書は、ある特定の、時代・宗教的背景・政治的状況の下で書かれているということを踏まえて読まなければ、正しく理解することは出来ない。例えば、主は弟子達を伝道に遣わす際「神の為に働く者が食べ物を与えられるのは当然」と言われた。それは、ユダヤ(単一宗教社会)においてこそ、のことであり、今の日本では当然ではない。また「父母を敬え。そうすれば地上で長生きする」(エペソ6:2~3)という約束も、ユダヤの律法に「親に逆らう子は殺せ」(申命記21:18~21)とあるがゆえ、親を敬えば殺されずに済む(地上で長生き出来る)のであり、それが「約束の伴う教え」だということである。
 同じように、「弱い人に心を配れ」ということも、ユダヤ社会の中に暮らす(それがユダヤ人でなく、在留異国人でも)弱い人を虐げるな、ということ(申命記24章)である。何故なら、ユダヤ人自身がエジプトで奴隷として虐げられた経験があるからだ。だから、そのつらい状況がわかるだろ? ということである。
 そういう訳で『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は』という、この詩編の言葉は、世界中の弱い人を…ではなく、主の集会(ユダヤ社会…に相当する教会)の中の弱い人を思い遣るようにということであり、その人は幸いなのである。ダビデも、そのような人だった。
 ただ、それでもダビデは病気か何かで苦しんでいた。身近な者に裏切られもした。それはキリストに重なる(9節)。しかし、神に助けを求める。『そうすれば私は、彼らに仕返しが出来ます』と言う。この「仕返し」は、ヘブル語の「シャローム」(平和)だ。つまり、そこに敵意が存在しなくなることを期待するということだ。キリストも、まさに、裏切られ苦しみを受けたが、神によって立ち上がらせられ、信じる者と神との間の敵意が取り除かれるようにして下さった。
 最後にダビデは『誠実を尽くしている』と言う。神の前に罪を犯した、と自ら告白しているのに、だ。確かに、決して立派な人間ではないかもしれない。それでも、神に向かい合うのをやめない、神の前から逃げない、神の語り掛けを受け止める、悔い改める、ということにおいて誠実なのだ。私達も、そのようにして、心の平和を保とう。

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