預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇40

 嘆き一辺倒という訳ではない。記念でもない、アルファベット詩でもない。では、教訓? 預言? この詩は何か。
 1~2節は、救いの表現である。私達も、これとほぼ同じプロセスを通る。主を呼び求めて(底無し沼から引き上げられるように)救われるのだ。救いは、自分の行い、努力、修行などにはよらない。救い主によって救われるしか救われないのである。そして救われたら、その人の人生は確かなものとなる。素晴らしい主の恵みだ。
 そのようにして、私達の口に「賛美が授けられた」(神を賛美する者へと変えられた)と3節。その証を見て、父なる神が崇められる。
 続いて『幸いなことよ』と4節。主に信頼すると共に、変な方に行かなかった人が幸いだ、と言うのだ。変な方とは? まず「高ぶる」ということ。クリスチャン(主に信頼する者)であるのに、祈らない(神など無用だ、自分で何でも出来るという姿勢)、それが高ぶりである。もう一つは「偽りに陥る」。主に信頼しつつも間違った教えを受け入れてしまうということだ。それは教える側に責任があるのだが。だから、そのような教えを聞かずに済む(守られる)なら、それはいかに幸いか。ゆえに「主の御計りは述べ尽くせない」と5節。幾らでも言える。すなわち、神の偉大さ、栄光を宣言する「礼拝」は尽きないということだ。しかし「神は、儀式的・形式的な礼拝を喜ばない」と6節。それゆえ神は「私の耳を開いて下さった」と詩人は言う。つまり、真理を聞く耳を持つこと、それが神の喜ぶことだという訳である。主も、聞く耳のある者は聞きなさい、と何度も言われた。真理抜きの形式だけの礼拝を神は喜ばない。それを悟った詩人は「心を尽くして…神を愛せ」と『巻物の書』(聖書)に書かれていたことを思い出し、宣言する。高ぶりや偽りの教えに向かわないために、この大事なことを語り伝えると。真理を聞く耳を持つことが必要だ、と。
 助けて下さい、という11節の祈り、その祈りの理由は12節だ。それを新約的に言えば、絶望的なほどに敵に取り囲まれている(Ⅰペテロ5:8参照)ということだ。だから「主よ、守って」と祈るのだ。私達も、神の助けを得て、霊・魂が守られるように(Ⅰテサロニケ5:23)と願おう。

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