預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇42:5~11

 魂が渇いて命の水を慕い求めていた詩人は、言わば霊的断食状態の中で断食の明ける日を期待しているのかと思えば、なんと、絶望していると言うのだ。「何故?」と詩人自身、自らに問いかける。それは、絶望している理由を聞きたいのではない。「絶望する必要はないでしょ?」と主張している、それが「何故?」だ。だからこそ『私はなおも神をほめたたえる』と言うのである。さすがは信仰者、と思いたいところだが、続く6節で、またしても『私の魂は御前に絶望しています』と言う。やはり、絶望しているのだ。
 ただ、絶望したから信仰を捨てるとは言っていない。確かに、絶望はしている。けれども「それゆえ神を思う」と言うのである。決して理想的な環境ではない、それどころか荒野(苦しみの中)でも、神に会えないわけではない、神を思うことが出来るということだ。そして、絶望の中にあっても、神の憐みと守りはある。その中で神を思う時に神の恵みを知ることが出来るし、何よりも大事なことを確認するのである。それは「神こそ私の命」だということだ。たとえ全てを失ったとしても、命である神がおられるということに気が付くことが大切なのだ。その為に、絶望の中でこそ神を思うことが必要なのである。
 続いて『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか』と嘆きは続く。「神に見捨てられた」と思えるほどの絶望感。この世のことについては、そういうことがあるかもしれない。どんなに頑張っても状況は悪くなる一方。苦しみが続く。裏切られる。先が見えない。詩人は全く失望している。けれども、神に絶望しているわけではない。いや、神に絶望してはいけないのだ。それゆえ『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか』との言葉が再び繰り返される。「絶望する必要はない」ということだ。それが悩みの末の決着であり、解決であり、結論である。むしろ『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を』だ。
 だから、涸れた谷に失望していた人は神を待ち望め、ということである。この世において絶望の時にこそ、なおも神を待ち望もう。そして、教会に豊かに命の水が溢れ流れることを祈り求めよう。

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