預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇43

 『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか』…それは、神に絶望する必要は無い、ということである。何故なら、神の裁きは公正であるからだ。ゆえに詩人は『欺きと不正の人から私を助け出してください』と訴える。詩人の周りには、欺く人、不正な人が取り巻いていたのだろう。いやむしろ、この世自体が、欺きと不正に満ちていると言うべきなのかもしれない。しかし、失望する必要は無い。神は公正な裁きをして下さる。その究極は、世の終わりの最後(白い御座)の裁きだ。全ての人が神の前に連れ出されて、その行いに従って裁かれるのである。それは誰も逃れることが出来ない。もう一つの公正な裁き、それは、人は必ず一度死ぬ、ということである。これは全ての人に平等に来る。どんな金持ちも、権力者も、王様も、逃れることは出来ない。悪者(罪ある者)にとって、そのような裁きは、恐怖であり、苦しみだ。しかし、正しい者(キリストを信じて義とされた者)にとって神の裁きは、救いであり、報われる時なのである。神は、罪人を地獄に落とすことが出来るし、悔い改めた者を神の子として下さることさえ出来る『力の神』なのだ。
 確かに、この世においては、神に見捨てられたと思うほどの苦しみ、失望…を感じるかもしれないが、それは決して真実ではない。そんな時にこそ、真理の御霊によって、「神は見捨てない」という真実に導かれることが必要なのである。
 そのようにして、絶望を感じる時も、御霊によって光を見出し、立ち上がって「神の御もと」に行くと詩人は言う。そこが『最も喜びとする』所なのだ。それは地上では、神の宮における礼拝であるが、いつかは地上を去る時が来る。それでも最上の喜びは失われはしない。いや、その時こそ本当の「最上の喜び」すなわち、天の都(神の御もと)に行き、神を崇める時の始まりなのだ。その信仰(確信)をもって歩もうと、この詩は指し示すのである。そうすれば、もはや、絶望する必要は無い。何故、絶望しなければならないだろうか。『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い。私の神を』
 これこそが、自らの心の葛藤に対する解決である。

×

非ログインユーザーとして返信する