預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

だ、だ、誰?!(マタイ21:1~10)

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
21:10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。



 「キリストなら十字架から降りて見ろ」と人々はあざけった。しかし、逃げるつもりなら、初めから、エルサレムに来やしないだろう。逃げるチャンスどころか、逃げる力など幾らでもあったのだ。しかし、主は、罪ある私達人間の身代わりとして十字架に架けられて死ぬために自ら進んでエルサレムに入られた。


 主のエルサレム入場を、一旦は大喜びで迎え、「ホサナ(原意:今、救って下さい)」と叫んだ群衆だったが、わずか5日後には「イエスを殺せ」と豹変する。その理由は、彼らのキリストへの期待が間違っていたからである。言いかえれば、彼らは「救いとは何か」が分かっていなかったのだ。彼らのキリストへの「期待」「願い」は、ローマからの解放、イスラエル王国の再建、政治的な革命、であった。主のエルサレム入場を喜び迎えたのは、彼らのその願いが、ついに今日、叶う、と思ったからであり、それが「ホサナ」という叫びの本音だったのである。彼らは、救い主が何をしに来られたのか、まるで分かっていなかった


 救いとは何か。信仰とは何か。イスラエルの民と同じような思い違いは無いだろうか。


 信仰を持てば一切問題が無くなるわけではない。『この世にあっては患難はある』のだ。しかし、信仰は、その問題を乗り越える力を私達に与えてくれる。そして、救いとは、罪と死という人間にはどうにもならない問題に対する解決である


 確かに、ユダヤ人にとって、ローマの支配下という(言わば、植民地状態)は、切実な問題ではある。解放を願うのは当然だ。しかし、それは「救い」ではないし、キリストは政治的な革命家ではないのだ。


 ユダヤ人以外のエルサレムの人々は、「この方は、どういう方なのか」と言った。私達は、キリストはどういうお方だと考えるべきか。主イエスに何を期待するのか、ということだ。それは、霊・魂・体が完全に救われることであるべきだ。主は、それを私達に与える為に、わざわざ自分から十字架にかかられたのだから。


 勿論、信仰による恵み、祝福は豊かにある。だが、第一に求めるべきものではない。第一は、主が言われたように、『神の国と神の義』だ。そうすれば、生きる為にどうしても必要なもの(生きる力、希望、愛、喜び……)は、すべて与えられる。

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