預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

今でしょ!(使徒2:16~21)

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』



 聖霊のバプテスマを受けてなくても、「キリストの証人」として働く為の能力・知力・学力・地位・名声のある立派なクリスチャンはおられるだろうから問題ない。しかし、『無学な、普通の人』(使徒4:13)には、聖霊の助け・力が必要だ。弱かった弟子達、主を裏切ったペテロも、聖霊のバプテスマを受け、大胆に主を証しした。


 そのペテロの説教の中で、「この出来事は、ヨエルの預言終わりの日には御霊が注がれるの成就である」ということが語られている(注意:初めの雨ではない!)。


 ということは、終わりの日は、すでに2000年前に来た、ということだ。すると、世の終わりがもう来たのなら、何故、この世は、今も存在しているのか。「今」は、何の日なのか。


 実は、「日」とは、時代・期間を指しているのであって、あのペンテコステの日から、終わりの日(時代・期間)は始まった、ということなのだ。つまり、聖書の言う『終わりの日』はいつか、と言えば、それは、「今」なのである。ゆえに、世の終わりが、いつ来てもおかしくはない。今が終わりの時代なのだから。事実、過去に何度か、世の終わりの危機があった。キューバ危機しかり、原発事故しかりだ。しかし、神の憐れみで、その「時」は延ばされている。聖書の言う通り、『今は恵みの時、今は救いの日』なのだ。だから、パウロは『この恵みを無駄に受けないで』と懇願する。


 今日という日が、いくらかでも平和なのは何の為か。いつ終わりが来てもおかしくないのに、それが延ばされているのは何の為か。それは、私達が、ひたすら主に仕える為、一人でも多く救われる為、その為に私達がキリストの証人となる為だ。


 『終わりの日に、私の霊を注ぐ』と神は言われた。主の御霊が注がれる日は、2000年前のペンテコステの時だけか。それとも、まさに世が終わる、その最後の日か。いや、御霊が注がれるのは、今だ。今が、『終わりの日』だからだ。聖霊は、初代教会の時だけで消えたのではない。終わりの時代である「今」、注がれるのだ
 この「恵みの時、救いの日」に、キリストの証人となる為に、聖霊の満たしを求めよう。

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