預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

再臨の備え(Ⅰペテロ1:13~16)

1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。



 やがて世の終わりが来る。そして、携挙・最後の審判・新天新地という途方もない出来事が起こることを聖書は教えているが、私達は、どれくらいそれを実感しているだろうか。いや、勿論信じてはいるが、実感は無いという方が正直ではないだろうか。しかし、そのときに注がれる恵みの大きさを思って、喜び待ち望むべきだ。それも『心を引き締め、身を慎み』ながらとペテロは言う。それが、再臨の備えなのだ。そして、『従順な子供となり』『聖なる者とされなさい』も加える。


 再臨の備えとして、何故、「聖め」が必要なのか。心の聖い人(聖人君子)しか天国に行けないのだろうか。いや、あなたがたも、聖でなければならない』と言われる理由は、『わたし(神)が聖であるから』だ


 それは旧約からの引用であるが、レビ記11:41~43には、ある種の虫を食べるな、と教えられている。その理由が、『神が聖であるから』だ。はて、「聖め」とは、虫を食べなければ、成し遂げられるのだろうか? いや、これは、エデンの園での「禁断の木の実」と同じく、「神の言葉に従うかどうか」という問題なのだ。アダムとエバは背いた。そのとき、人間に罪が入った。従っていれば罪は入らなかった(完全に罪から「分離されている」、すなわち、「聖い」)のだ。つまり、神の言葉に従うことが、「聖め」られる道だということである。


 その意味で、「あなた方は、真理に従うことによって、魂が聖められている」と、Ⅰペテロ1:22に言われている。すなわち、救われているのだ。だから、更に御言葉に対して「従順な子供となって聖められるように」と聖書は言うのである。それも『あらゆる行いにおいて』だ。何事においても、御言葉の指し示すところに従って行う、それが再臨の備えなのである
 世の終わりが近い、ということは実感する今の時代、主をお迎えする備えとして、私達は、御言葉に従う(=聖い)人となろう。

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