預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

喜びも、悲しみも(ローマ12:15)

12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。



 一般的に、泣くことが「良いこと」であると積極的に考えられることはあまりない。クリスチャンでも、それを「不信仰」と捉える場合があり得る。しかし聖書は、共に泣きなさい、と言う。そう、喜びも悲しみさえも共有する、それが教会だと言うのである。


 ヤコブ5:13には、苦しんでいる人は祈りなさい、とある。
 苦しんでないなら祈らなくてよいだろうか。いや、私達は、いつでも祈るべきである、と聖書から教えられているのだが、特に、苦しい時は、いや、苦しいからこそ祈るべきなのだ。


 とは言え、苦しさのあまり、祈りの言葉さえ出てこず、ただうめくように、「主よ」とつぶやくしかない、という時があるかもしれない。しかし、そのような時、実は、聖霊なる神が、共にうめき、祈って下さっているのだ。(ローマ8:26)


 共に泣き、共に苦しんでくれる……それが慰めであり癒しであるだから、主イエスは、苦しむ者の苦しみを共有して下さったのだ。例えば、「私達を憐れんで下さい!」と叫ぶ二人の盲人を見て、主は、かわいそうに思い、癒しを与えられた。何より、神から離れて、苦しみの人生を送り、やがて地獄の苦しみに落ちようとしている人間の、その苦しみを背負って主は十字架に掛かられた。実に、私達と共に泣き、共に苦しみ、私達を慰め、全てを癒して下さるお方なのだ。


 そればかりか、主は喜びをも増し加えて下さる。その為に、『喜ぶ者と共に喜べ』と言うのだ。例えば、喜びを隠して我慢するのは苦しい。しかし、それを誰かに分かつ時、抑えていた喜びが溢れ爆発するものだ。それゆえ聖書は言う。『あなた方の中で喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい』と。救いの喜び、恵み、感謝……それらを皆で一緒に、共有するのだ。そうすれば、その喜びは溢れ爆発する。それが教会なのである。


 今、もしかしたら、病や問題の中にある方がおられるなら、主の憐れみを求めて祈ろう。主も共にうめき、泣き、慰めを与え癒して下さる。そして、教会には、主の恵みと憐れみを喜んでいる人が必ずおられる。その人と共に、一緒に主を喜び賛美しよう。そうすれば、喜びが増し加わる。

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