預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇4

 ダビデが息子から命を狙われるという危機を、主によって脱したのちに書いた詩である。だが、そこには、感謝ではなく、叫びとも言うべき祈り・願いが記されている。ダビデには、なおも命の危険が迫っていたのだ。しかし、決して失望ではない。ダビデは、今度もまた主が助けて下さるという確信があった。『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えて下さいました』という経験を心に刻むがゆえである。
 そこでダビデは言う。『主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる』と。
 特別扱いするということは、ときに「悪」とされる。例えば、学校の先生がある特定の生徒を、ひいきする場合だ。他の生徒達は「差別された」と訴えるだろう。教師たる者、全ての生徒を公平に扱うべきである。しかし、ひいきすることに何の問題もない場合がある。それは、例えば、ある店を気に入って、ごひいきにする場合だ。他の店も公平に可愛がってやる必要はない。自分の好きな店にだけ行けばいいのである。それは、差別ではなく、区別なのだ。犯罪者は牢屋、善良な人には自由、というようにだ。同じく、神に背く人と従う人が公平な扱いを受けることはない。地獄か天国か、だ。そこに区別が生じる。『主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる』のである。呼び求めるとき、主は聞いて下さるのだ。
 ダビデは父親としては失格だったが、苦しみのときに主によってゆとりを与えられた。ひいきにされた、その理由は、彼が、主を愛する人だからだ。だから彼は言う。主の前に恐れおののけ。そして罪を犯すな(神に従え)と。そして、義(正しいこと)の犠牲を捧げよ、と。つまり、神の前に正しいことを行うには犠牲が伴う、ということである。それでも主に依り頼んでそれを行う、それこそが主を愛する人であり、主が「ご自分の聖徒」とされ、特別に扱われる人なのである。
 けれども多くの人は、神に依り頼まず、権力やカネに期待する。全ての争いの原因がそこにある。しかし、主が心に与えて下さる喜びはこの世の何にも優る、とダビデは言う。それを求めて与えられたがゆえに彼は、平安の内に眠り、安らかに住まう。私達も、主に依り頼む者となり、主の下さる喜びと平安を求めよう。

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