預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇46

 苦難の時、必ずそこに居まして助けて下さる(新共同訳)、それが神だと言う。頼もしい限りである。だが、何故いつもそこに居るのか。神のいる所に災いがあるという事か。いや、神が居る居ないに拘らず、人生に苦難はある。問題は、その時に助けがあるかどうかだ。
 そこで、神は助ける、と聖書は言う。「ならば、どうして?」と言いたくなる。ステパノを始めとして数多くのクリスチャン達は助けを得る事無く殺されていった。一体、いつ助けると言うのか。
 理解の助けとなるのは、癒しだ。「病は必ず癒される」という一つの信仰がある。確かに神には出来る。しかし、あのパウロでさえ癒されなかったではないだろうか。何故か? 主が行われた癒しは、一つには、御自身が「預言されていたキリストである」ことを証明する為のものだ。そして、それはもう証明された(十字架も復活も聖書も完成した)ゆえに繰り返す必要は無くなった。もう一つは純粋に「憐れみ」の故の癒しである。その憐みは今もある。だから今でも、癒しという恵みを受ける時がある。だが、憐れんで下さるかどうかは神次第であり、要は、癒しは必ず……ではない、という事だ。
 それでも、それを承知の上で、あえて言おう。病は必ず癒される、と。それは、いつかと言えば、天国に行った時だ。それは完全な癒しである。何しろ、キリストと同じく栄光の体(新しい体)になるのだから。彼の打ち傷の故に私達(人間と神との関係)は癒された(イザヤ53:5)故に天国に行けるのであり、天国では完全に癒されるのである。
 「必ず助ける」も、それと同じで、全ての人の苦難の時(死・世の終わり)、すなわち『夜明け前』に神は「必ずそこ(天国)に居て」信徒を引き上げ(携挙し)て下さるのである。そのような時、国々は立ち騒ぎ、王国は揺らぎ、地は溶ける(6節)。しかし『万軍の主は我らと共におられる』(7節)のだ。
 だから『やめよ』(「力を捨てよ」新共同訳)、主こそ神であると知れ、と10節。神は完全な助け・癒し・解決を備えておられる。だから、もがき足掻くなという事だ。そうすれば主が砦・助け・力となって下さる(11節)。その信頼を堅くした上で、主の憐みを求めよう。

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