預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇53

 53篇は、14篇と殆ど同じである。だから片方は要らない、と言っていいか。それなら福音書も4つも要らないという事にもなる。いや、そんなはずはない。聖書である以上、その存在には意義があるはずだ。
 14篇との違いは5節だ。特に『見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを』という一文は不思議だ。恐れが無いのにどうやって恐れるのか。新共同訳では『それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ』と、分かり易く訳している。
 では何を恐れた事が無かったのか。勿論、真の神を、だ。言い換えれば、偶像により頼んだという事である。それは、真の神を知らない全ての人だ。そのような人達に『大いに恐れるがよい』と聖書は言うのだ。これがもし「大いに喜べ」なら祝福であるが、『大いに恐れるがよい』は裁きである。つまり、彼らは大いに恐れる時が来る、という事だ。何故なら、神を恐れた事が無かったからである。
 神と神の民に敵対する彼らへの裁きは、骨がまき散らされ、神に捨てられる、という恐るべきものだ。だからそれが「神を恐れる事の無い者が、いかに恐れたかを見よ」という新改訳の翻訳なのである。
 しかしながら、クリスチャンも「かつては、神を恐れる事が無かった者」だ。『それゆえにこそ、大いに恐れるがよい』という言葉は、クリスチャンにも言われていると理解出来る。すると私達の骨もまき散らされ、神に捨てられるのか。いや、キリストを信じる者は、神の国で永遠の命を生きる。それが救いだ。では何故『大いに恐れるがよい』なのか。それは、神の素晴らしさ、恵み、憐れみの故に、だ。それが余りにも大きいので『それゆえにこそ……』なのである。つまり、かつては……だけでなく最後まで神を恐れない者に対しての『大いに恐れるがよい』は裁きであるが、神を恐れる者となった人には、それは祝福なのである。そう、溢れるほどの神の恵みを受けて、大いに神を恐れるがよい。崇めるがよい。たとえ、かつては神に頼らず、自分の力に頼ろうとした事があったとしても、『それゆえにこそ』これからは、神を大いに恐れるがよい、という事だ。主の十字架、復活という恐るべき救いの業の故に、大いに神を恐れ崇めよう。

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