預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇54

 ジフ人がサウルにダビデの居所を密告した時の詩である。ダビデは52篇でもドエグに密告されていたが、いずれの場合も、その場所を襲われて死ぬことはなかった。神の守りであろう。だから私達も密告されても大丈夫、と言われてもピンと来ない。神は、この詩を通して何が言いたいのか。それは、救いについてである。
 クリスチャンは罪が赦され、神の子とされて、新しい体で天国に行ける。それが救い(の結果)だ。それを知らないクリスチャンはいないだろう。しかし、肉体の死ののち、すぐに天国なのか、紆余曲折あるのか、そのプロセスはどうなのかだ。
 黙示録21章は新天新地についてだ。その直前(天国に入る前)が20:11~15の「白い御座の裁き」である。全ての死んだ人が神の前に呼び出されて、その行いに応じて裁かれ、ある者は「第二の死」地獄に至る。しかしこの時、クリスチャンの為に主が弁護して下さる(Ⅰヨハネ2:1)。この世では、弁護団がついていても不当な判決が下される事がある。それゆえ詩人も必死に訴えているように見える(54:1~2)。だが実は、新共同訳では「弁護」ではなく「裁き」を求める訳になっている。普通は裁かれたくはない。過剰な罰を避ける為に弁護士も雇う。しかし、裁きを求める理由は、神の裁きは正しいと知っているからだ。キリストを信じた者は救われる、という確信のゆえに、裁判において議論するよりもさっさと判決を下してくれということだ。
 こういうプロセスを経て、新天新地・天国に入るのだが、裁判は避けて通れない。その時、全ての行いが明るみになるのは恐ろしい事でもある。しかし、その恐れを取り除く、それが「救いの確信」なのだ。
 7節に「神は全ての苦難から救う」とあるが、本当か。救ってもらえず殉教した使徒達は敗北者か。いや、最後の裁きの、最悪地獄という恐怖、サタンの告発、密告、火の池、それら全てから救って下さるということだ。ゆえに「敵を眺める」ようになる、これも救いの確信だ。だからもはや律法が命じる(一時的な赦しを得る為の)いけにえは不要となる。むしろ、救いの確信のゆえに、自ら進んで捧げる「賛美のいけにえ」御名を称える唇の果実をもって神に感謝しよう。

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