預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

カネか平和か(箴言17:1~3)

 「裕福で争いがある」より、「貧しくても平和」が良い、と聖書は言う。それに対して、「アーメン」と言える心でありたいが、いざ本当に貧しくなればどうだろう。例えば、夕食にパン一切れしかないなら、その家庭(夫婦間)には争いが起きるかもしれない。それゆえに裕福を求めるわけだが、そこで逆にまた競争、争いが起きる。勿論、夕食がパン一切れより、ご馳走があったほうがいい、というのは確かだが、何かを求め過ぎる時、本末転倒が起きてしまう危険がある。
 大切なのは、心の余裕、平安な心だ。私達は、信仰によって、それを自分のものとしなければいけない。主は養って下さる、いつも共にいて助け支えて下さる、全てを益に変えて下さる、最善の時に最善をなして下さる…そのような信仰を堅く持つなら、心は平和に保たれる。
 ただ私達は、まだ不完全な者であり、心に平和が完成しているとは言えないかもしれない。しかし、『銀にはるつぼ、金には炉、人の心には主』と聖書は言う。陶器師なる主は、私達の心を精錬し、不純物を取り除き、練り直し、造り直して下さるのだ。その為に私達は、頑なな心ではなく、粘土のように柔らかく、素直な、主の前にへりくだった心でいたいと思う。箴言に『主を恐れよ。それが知識の初めだ』と教えられてもいる。伝道者の書には『神を恐れよ、神の命令を守れ、それが人間にとって全てである』と教えられている。主も言われた。『何はともあれ、神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば……』と。
 神の国と神の義、その「完全なもの」が現れる時、不完全な「私達の心」は廃れる。バプテスマのヨハネが『あの方は盛んになり、私は廃れなければ』と言ったように、主の前にへりくだろう。そのような柔らかい心であるなら、主によって精錬され、強められ、輝く者へと造り変えられる。たとえ、現実には「何かが足りない」ということがあったとしても、それを求めるあまり、争いが起きるよりも、「一切れのパンで平和」を良しとする心に変えられよう。
 銀にはるつぼ、金には炉。聖められ輝く為に、人の心には主なのである。

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