預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

自由だああ!(創世記1:26~28)

 造り主なる神は、人間を造り、自由意思を与えて下さった。それは、『人をご自身のかたちに創造された』、すなわち、「神の御性質に似せて造られた」という御言葉によって裏付けられる。何故なら、当然、神には自由意思があり、ご自身で「こうしよう」と思い、天地を創造されたのであり、その神の御性質に似せて造られたのだから、人間には自由意思があり、自己決定能力があるのである。事実、エバは、禁断の木の実を食べる事を、惑わされたにせよ、最終的には自分で決めた。決して無理やり食わされたのではない。
 聖書を見ると、神は、この地球上の事一切を、『人間に支配させよう』と決められたとある。魚を獲ったり、果物を食べたり、ひいては経済を動かす事も、環境を守るも壊すも、政治も、全て、人間に任せられている。勿論、神は、天と地の支配者であられるけれど、決して、全ての事を直接コントロールしているわけではないのだ。
 必然的に、私達の人生も、ある程度は自分の意思で動かしている事になる。より良い人生にするも、人生を棒に振るも、自分次第だ。
 ですから聖書は言う。『その自由を肉の働く機会としてはならない』(ガラテヤ5:13)と。また『その自由を神の奴隷として用いなさい』(Ⅰペテロ2:16)と。
 神の奴隷(義の奴隷)である事の幸いをローマ6:23は教える。すなわち、『罪という主人の奴隷が受け取るものは死、しかし、神の奴隷が受ける賜物は永遠の命だ』と。だから、神に従う事を選び取れ、と聖書は教えるのだ。その自由意思が与えられている。しかし、その自由意思によって、人間は神に背いてしまった。それは神が仕向けた事ではない。要は、自分次第。『誘惑が来てもそれは神のせいではない』とヤコブ書も教えている。逆に言えば、たとえ、どれ程、人間が罪深く、この世が乱れ、不幸が襲って来たとしても、聖書が真理である事は変わらない。神が愛である事も変わらないのだ。だから、何があっても、神に失望してはならない。主はいつも、良いお方だ。
 人生は、自分の意思次第で動き、作られていく。その自分の意思で、主に従う事を選び取るなら、幸いな人生となる。

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