預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

だから、違うって(ミカ4:1~4)

 終わりの日には、多くの異邦人が御言葉を求めてエルサレムに来て平和に暮らすという。同じ事がイザヤ2:2~4にも預言されているのだから間違いなくこれは「世の終わりの大リバイバルの預言」だとする向きもある。それでは続くミカ4:5に『まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む』とあるのはどういう事か。大リバイバルとは程遠い、昔も今も変わらない現実を聖書は示しているのではないだろうか。
 そもそも「終わりの日」とは何か。例えば『今は救いの日』(Ⅱコリント6:2)の「日」は「恵みの時代」と呼ばれる今を表している。「終わりの日」も同じで、福音による救いの道が開かれて以降の「恵みの時代」(あとは新天新地を残すのみの最後の時代)全てを指すのであり、その時に何が起きるかを預言しているのだ。そして、それは既に起きた。何が起きたか。それは、救いという恵み(福音)が異邦人にも広まったという事だ。異邦人も、御言葉を求めて「主の道を歩もう」と言うようになった。そして、その人は心の平和を得て、もう戦わない(穏やかに平安に暮らす)、心に神の国が建てられるようになったのである。それがミカ4:1~4の預言が直接的に意味する事である。皆がクリスチャンになったら平和でいいね、などという甘い話ではない。幻想・妄想は捨てよう。現実は『すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む』と言われている通りだ。
 『しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の名によって歩む』とミカ4:5後半にある。どこに向かって歩むのか。勿論、天国・神の国だ。そここそ完全な平和、神の家・シオン・新しいエルサレムである。心に神の国を保つ人は、やがて本当の神の国に入る。それがミカ4章の預言のもう一つの意味である。それまでは、5節前半の通り、世は混迷を極める。しかし私達は世々限りなく主の名によって歩むのだ。決して、世の流れなどに流されてはいけない。落ち着いて、しっかりと主の道を、天のエルサレムを目指して歩もう。そこに到達するまで必要なのは「心の平和」だ。その為に御言葉を慕い求めよう。そうすれば争いは止む。神との争いも、人生の戦いも。

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