預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

言い伝えではなく、神の言う事を(イザヤ59:19~21)

 終末的メシア預言であるイザヤ書は、神と人との関係の回復を教えるものである。神との関係の回復…その為には人間の罪を処分する事が必要だ。ゆえに神は民の悪を裁かなければならない。その様な文脈の中で語られているのがこの箇所であり、その為にイスラエルを裁くというのが18節だ。それを見て、イスラエルを攻撃していた周りの国々が恐れる。そして彼らの中にも神の裁きの嵐が吹くというのが19節である。これを「日の上る方、すなわち日本の大リバイバルの預言だ」というのは頓珍漢な解釈だ。リバイバルどころか、裁きの預言なのだから。たとえ血統的なユダヤ人(肉のイスラエル)でも不信仰なら裁かれるのだ。『しかし、シオンには』と20節。悔い改めて真の神の民となった者の所には『贖い主として来る』と言うのである。
 とにかく、リバイバルではなく裁き…それが『主の御告げ』だと聖書は言う。大切なのは「神の言う事」を聞く事だ。それを忘れている人々に主は言われた。「イザヤが預言していた通り、あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:6~9)と。
 21節。文脈に沿って「悔い改めて真の神の民となった人々」に語られていると理解しよう。彼らの上に神の霊があり、その口に置かれた神の言葉はとこしえに離れないと言う。どんな言葉だろう。真の神の民の唇にいつも在る言葉、それは「イエスは主」と崇める言葉であり、同時に「ことば」であられる主御自身がいつも共にいるという事だ。それが『契約』だと主なる神は言うのである。真の神の民が永遠の御国に入るなら、それからはもう彼らから信仰が離れる事はとこしえに無い。その時、信仰を守る為の戦いは終わるからだ。永遠の命、恵み、幸い…はとこしえに離れる事がない。それが神の契約なのだ。そしてその時、「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」という主の約束は完成する。それは、世の終わりが来たら離れる…のではなく、世の終わりが来たのちは、もはやとこしえに離れる事が無い、その時までいつも共にいるという事であり、要は、ずっと共にいるという事なのである。この大切な契約を見失わないように、しっかりと握っていよう。

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