預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

裕福=祝福とは言い切れない(マルコ10:23~27)

10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」



 金持ちが神の国に入るのは難しい、と主は言われた。もし、クリスチャンが成功して経済的に豊かになったら天国には入れなくなるのだろうか。そう言えば8年ほど前に、繁栄の神学を推奨する有名な牧師が14億円もの横領で逮捕された。「やはり、そうか」と思いたくもなる。


 いや、実は、主が言われたのは、『富に頼る者が神の国に入るのは難しい』(新改訳聖書マルコ10:24・脚注)だ。問題は、お金があるか無いかではない。富に頼っているかどうか、だ。そして、「神の国」は「神の支配(神が王として治める所)」ということであるのだから、要するに、『富に頼る者が神の支配下に入るのは難しい』と主は言われたのである。決して、富自体が悪なのではない。経済の祝福を求めても構わない。


 ただ、それで、裕福になったとして、それでもなお神に支配され続けていられるかどうか、が問題なのだ。残念ながら、富を得た者は、富の支配に屈しやすい。14億円に目が眩むのだ。それを「悔い改めるように」と主は、この裕福な青年を導こうとされたのである。すなわち、「富に頼る」から「神に頼る」へと方向転換することだ。


 ゆえに、弟子達の『誰が救われる?』という疑問に対して主は言われた。『それは人には出来ない(人間の力、方法ではだめだ)。しかし、神はそうではない(神の方法なら出来る)』と。つまり、「行いや、この世の成功」ではなく、「罪を認めて悔い改める」ことによって救われる。それが神の方法なのである。


 所が、この「神の方法」に頼る、というのが人間には難しい。何故なら、イザヤ55:8の「主の御告げ」にあるとおり、『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ』。


 例えば、人は誰でも楽なほうを選びたい、つらい道は避けたいと思うものだ。しかし、神はそうではない。主は自ら進んで苦難の道を行かれた。神の思いは、人の思いとは異なるのである。それゆえに、神の思いに従うということが人間には難しい。


 金持ちは神に祝福されていると考えていた(まさに繁栄の神学の考え方を持つ)当時の人たちは主の言葉に驚いた。神に祝福されている金持ちが救われないなら、いったい誰が救われるだろうか、誰もいないじゃないか、と。


 そう、金持ち以外に救われる人はいない、だから金持ちになろう、それが神の祝福だ、と考えてはいけない。

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