預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

やさしさ(ヨハネ15:1~5)

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。



 主は、『私にとどまりなさい』と言われた。ぶどうの枝が木から切り離されては実を結べないからだ、と。つまり、キリストに繋がっていることの重要さを説いているのである。
 ユダは、この教えを聞いていなかった。裏切りを予告されたあと、彼は出て行ってしまったきり、戻って来なかったからだ。ペテロも裏切ったが、この教えを聞いていたからか、ユダのようには去って行かなかった。弟子達と行動を共にし、かろうじてキリストとの繋がりを残していたのだ。二人の結末の違いが全てを物語っている。ペテロは立ち直り、ユダは悲惨な最期を迎えた。
 ゆえに私達は人間として、人間を求めるのは勿論のことではあるが――主も、人は一人では生きて行けないということをよくご存知で、ご自身、弟子をとられたのも、神の国の奥義が人から人へと伝わることを願ってのことだろう――しかし、それ以上に、キリストに繋がることを求めて行くべきなのだ。
 では、キリストに繋がる(とどまる)とは…? それは、主の戒めを守ること(ヨハネ15:10)だ。では、主の戒め(命令)とは…? それは、Ⅰヨハネ3:23にある通り、『神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うこと』である。
 問題は、『愛し合う』だ。聖書が言うのは、『キリストが命じられたとおりに』である。ではキリストは、いつ、何と、命じられたのか。それが、ヨハネ15:12『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです』だ。
 主が、私達を愛するが故になさったこと、それは、他人をではなく、自分を犠牲にすること。そして、裏切ると分かっていた弟子の為に、とりなして祈ることであった。
 それと同じように、他人に犠牲を強いず、とりなして祈る、それが、「キリストが愛して下さったように、互いに愛し合う」ことなのである。そして、それが、主の戒め(命令)なのだ。それに従う時こそ、私達は、キリストにとどまる者となり、豊かな実を結ぶ。
 とどのつまり、要は、人に余計な重荷を負わせないということだ。その点、主は律法学者・パリサイ人たちについて言われた。『彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません』マタイ23:4






 そういえば、忌野清志郎も昔歌っていた。
「やさしさ」という曲で
「ズルイ! ズルイ! ズルイ! 責任逃れ 君の荷物さ、それは僕のじゃない。僕にしょわせないでー、でー、でー」って。

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