預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

実は、死んでる(マタイ23:25~26)

23:25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。



 魂の入れ物(器)である人間を「杯」に例えて、『内側をきよめれば外側もきよくなる』と主は言われた。確かに、内臓が元気だと顔色も良く肌も綺麗になる。命あるもの(生きているもの)は、内側と外側が繋がっているのだ。その点、墓は、命の無いものであるから、内側に何が満ちていようとも、外側は真っ白に出来る。命が無いゆえに、内側と外側がちぐはぐで在り得るのだ。
 ところが、命あるものであるはずの人間が、内側と外側が、何故か食い違ってしまう。内側には、恨み、妬み、憎しみ、時には殺意までもが満ちているのに、外側は、地位、名誉、財産、世間体…で見事に整えてしまうのだ。
 そこで主は、『あなた方は、白く塗った墓のようだ』と言われた。これは、痛烈な言葉である。私達は誰でも、人間として(大人として、社会人として)外側を整える。それは当然だ。しかし、同時に内側を整えることをしないなら、白く塗った墓と同じ、つまり、『生きてるようでも、実は、死んでるのではないか。命の無いものと同じではないか』ということだ。
 確かに、人はうわべしか見えないから、外側だけ繕えば、なんとかなる。しかし、神は心を見る。クリスチャンも、表向き、敬虔を装うことは難しくはない。しかし、どれだけ神を愛し、神の国と神の義とを第一にしているか、その心を主は見られる。
 だから、まず、「自分には罪がある」という認識を持つことが必要だ。『神は高ぶる者に敵対する』とⅠペテロ5:6に教えられている。私達は神の前に、うわべを繕うのではなく、へりくだらなければならない。そのようにして、内側が整えられれば外側にも表れて来る。正しい心で生きるようになれば人生(日々の生活)も幸いになって行く。それが、命あるものだ。命の無いもののように、内側が汚れたまま外側だけ白くするのではなく、命あるものとして、内側をきよめられることを求めよう。

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