預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

愛は、あるだろう?(Ⅰヨハネ4:8~11)

4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。



 愛の無い者に神は分からない、と聖書は言う。
 勿論、「神が分からない」と言う人はいるだろう。すると、その人は、愛の無い人なのか。いや、クリスチャンでなくとも、愛に溢れた、他人の為に自らを犠牲にする人がいるし、『たとえ悪い親でも、自分の子供には良い物を与える』と主イエスが言われたように、全く愛の無い人などいない。誰でも少しは愛があるはずだ


 では、愛の無い者に神は分からない、とは、どういうことなのか。その答えとして聖書は、『なぜなら、神は愛だからだ』と言う。英語では、God is love だ。つまり、神は愛に満ちているとかではなく、愛そのものなのだ。
 ということは、神のいない世界は、愛の無い世界である。それは、地獄だ。地獄に愛は無い。逆に、この世界の誰もが愛を持っているということは、この世界に神は存在するということでもある。ただし、残念ながら、罪ある人間には愛が足りない。愛情不足は、様々な苦しみを生みだす。虐待の連鎖、多重人格、性的倒錯など、それらは全て、子供の頃の愛情不足が一因だと言われている。この世の不幸(地獄の苦しみ)は、愛されない(愛の無い)ことが原因なのだ。
 要するに、『愛の無い者に神は分からない』というのは、愛されていない者に、神は分からないということなのだ。何故なら、神は愛だから。愛は、学問ではなく、体験して知るものであり、愛されなければ、愛とは何か、愛がどういうものであるのかは分からないのだ。


 問題は、自分が愛されていることを知らない、ということだ。まるで、グレて家を飛び出して、不良の仲間入りする子供のように、「自分は愛されていない」、と思い込んでいるだけだったりする。
 それでも、自分の為に命をかけてくれる親の姿を見て、いずれは愛に気付く。同じように、主イエスの十字架(そこに神の愛が示されている)を見て、神の愛を知るのだ。そして、自分が愛されていることを知るがゆえに、「愛である神」が分かるようになる。
 神の愛を受け取って、ますます、神を知る者となろう。

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