預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

病気は罪か?(ヤコブ5:15~16)

5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。



 疑問を感じて頂きたい。病が癒されたら何故、罪も赦されるのか。15節に、そう書いてあるのだが。病は、イコール、罪なのか。果たして、これはどういうことか。


 実は、ここでの「信仰」は、ギリシャ語では冠詞付きの「ピスティス」(特別な信仰ではない、クリスチャンなら誰もが持っている、主イエスこそ真の神、全能の神だという、基本的な信仰のこと、それが冠詞付きの「ピスティス」)である。
 その信仰による祈りは「病む人」(これは、疲れている人、参っている人、というギリシャ語であり、必ずしも医学的な病という訳ではなく、人生に疲れているとか、心が参っている……とかの、言わば、真の神を知らない、ごく普通の人)を、「回復させる」(ギリシャ語の「ソーゾー」……それは、ずばり、救う)ということなのだ。


 つまり、この御言葉は、病の癒しと言うよりも、むしろ、魂の癒し(救い)を教えているのだ。「主イエスこそ救い主」という信仰による祈りは人を救いに導くのである。そして、それゆえに、その人の罪が赦されるのである。


 ただし重要なポイントは、その「祈りが働くと」という部分だ。信仰も祈りも、働かなければならないのである。例えば、沢山の機能があるパソコンを持っていても、メールかインターネットしか使わない(他の多くの機能を働かせてていない)、ということがあるのではないだろうか。同じように、確かに信仰は持っているが、持っているだけで働かせていないとしたら、もったいないことだ。


 では、信仰の働かせ方とは? それは例えば、ルカ5章……一晩中働いても魚が獲れなったペテロに、主が「網をおろして魚をとりなさい」と言われた。常識的には無駄と思えても、ペテロは、イエス様のお言葉だから、と従ってみた。このとき、彼の信仰は働いたのである。すると、沢山の魚が獲れた。


 そのように、たとえ自分の判断に合わなくても、聖書が「そうしなさい」と言うなら、やってみようか、と信仰を働かせるのである。教会に集うことも、惰性やいつもの習慣で、ではなく、主の御名によって集まる所に主の臨在がある、と信仰を働かせて集うのだ。
 信仰は、棚の上に飾って置くものではない。タンスの中で眠らせていてはいけない。信仰を働かせよう。日常的にも、いつも喜び感謝する、その為には、信仰を働かせることが必要だ。そう「平穏無事なのは、主が守ってくれているからだ」と信仰を働かせて喜び感謝しよう。

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