預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本当の安息(ヘブル4:9~11)

4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。



 安息とは何か。それは、土曜か日曜か、というような問題ではない。
 安息に入る……それは、「自分の業を終える」ことである。そして、それも、仕事を休む(一切の労働をしない)というような単純なことではない。それは、自分の力で幸せになろうとする(果ては、救われようとする)ことをやめて神の一方的な恵みである「救い」を受け取って安らぎを得ることである。


 そこで、『信じた私たちは安息に入る』(ヘブル4:3)のだが、であるならば、『自分のわざを終えて休んだはず』(ヘブル4:10)だと聖書は言う。つまり、まだ、自分の業を終えていない(安息に入っていないクリスチャンがいる)ということである。私達は『この安息に入るよう力を尽くして努め』なければならない。しかし、どうすれば、自分の業を終えられるのか。


 必要なのは、自分の力の限界を知ることだ。幸せも、天国も、罪の問題、心の問題も……人間の力ではどうにもならないことがある。勿論、努力は必要ではあるし、人間には可能性も未来もあるだろう。しかし、自分の力を尽くすことによって、初めて、自分の力だけではダメだ、ということを悟るのである。そこで、ようやく、神に頼るようになる。「弱さの中に神の力が完全に現わされる」ということだ。


 あるとき、主イエスから、『できるものなら、と言うのか』と叱られた父親が言った。『信じます。不信仰な私をお助け下さい』と。普通なら、「私は不信仰だから、信じられません」と言いそうなものなのに、彼は、自分が不信仰だと認めながら、「信じます」「お助け下さい」と言う。つまり、自分の信仰はダメだと悟って、神に依り頼んだのである。すなわち、自分の業を終えたのだ。


 もし、「私は不信仰だけど、大丈夫、なんともない」と思っているなら、非常に危険な状態だ。自覚症状が無いのだから。しかし、「こんな不信仰のままじゃダメだ」と悟って、神に依り頼むなら幸いだ。


 自分の力を尽くして、自分の限界を知り、神に依り頼む。それが、「自分の業を終える」ということであり、そうすれば、魂の安息に入る。そして、ついには完全な安息の地・天国に入るのである。

×

非ログインユーザーとして返信する