預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇3

 ダビデは、神の目にかなって、選ばれた王だ。ならば祝福されるはず、と考えるのは当然である。しかしダビデは、王であるにもかかわらず、命を狙われて逃亡生活を強いられた。それも、実の息子アブシャロムから命を狙われたのである。
 何故、そのような災いにあうのか。罪を犯したからか。確かに、ダビデはバテ・シェバの件では罪を犯した。が、悔い改めて、赦されている(Ⅱサムエル12:13)。アブシャロムの件は、ダビデの父親としての問題である。アブシャロムは、父としてのダビデに失望し、殺意を抱いたのだ。現代風に言えば、家庭崩壊である。
 それでもダビデは、聖書においては重要な存在、キーパーソンだ。たとえ、苦難と災いがあろうとも、自らの失敗によって苦しもうとも、神の祝福がある。ゆえに「主が共にいて守ってくれる、だから平安だ」と歌う、それが、この詩篇なのである。
 人間的な弱さは誰にでもある。完全な(失敗しない)人などいない。体の贖われる(罪の残る肉体を脱ぎ捨てる、救いの完成の)ときまでは、失敗があって当たり前なのである。ダビデでさえも、だ。しかし、その家庭崩壊ど真ん中のダビデにも、神の守りがあった。それが、神に依り頼む者の幸いである。パウロが言うように、患難、迫害などの中にあっても圧倒的勝利を取る、ということだ。ゆえにダビデは、逃亡中の苦しい状況でありながらも、主の支えの中で安心して眠り、(殺されないで)また目覚める、と言うのである。そしてそれは、ダビデ個人の心情のみを表すものではない。つまり、人の人生というものは(ダビデがそうであったように)戦いの連続であり、戦いの果てに、やがて死ぬ(身を横たえて眠る)ときが来るが、主に信頼するから、また目を覚ます(復活する)、ということをも表すのである。それこそが、聖書の教える、何ものにも打ち負かされることのない(決して、絶望の底に落ちない、沈まない)圧倒的勝利である。
 『救いは主にあります』と締めくくられる、この詩(ダビデの人生)を通しての神のメッセージを受け取ろう。そして『神の祝福が、神の民の上にありますように』と、信頼をもって主に祈ろう。

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