預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

「さよいち」から悟れ(マタイ13:1~9)

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」



 良く知られた「種まきのたとえ」である。が、これは実は理解が難しい。何故なら、この「たとえ話」は、聞いてる人に分からせない為に語られたものだからだ。その上、神の国の奥義を知ることが許されている弟子達にも分からなかったのである。


 で、主は解説なされたが、果たして「良い地」とは何か。分かっているのは、「道端のような心」や「岩地のような心」「茨のような心」ではいけない、ということだ。
 だから「聞いた御言葉をサタンに奪われないように、しっかり握ろう」「かたくなな心を捨ててへりくだろう」「心の中の小石や雑草を取り除こう」という風に教えられる。
 勿論、それらは良いことだ。しかし、そうすれば「良い地」というわけではないのである。主は言われた。『御言葉を聞いて悟る人』、それが「良い地」だ、と。


 大切なのは「悟る」こと(ギリシャ語のスィニーミ)だ。弟子達にはそれが許されていたはずなのに(だから更に与えられて豊かになるはずなのに)、「信仰が薄い」「足りない」と主から叱られた主が何度も嵐を静められたことからも、パンの奇跡からも『悟る所がなかった』のである
 そしてついに、あきれ果てたかのように主が教えて下さったことによって、ようやく弟子達は『悟った』(マタイ16:12)。マタイ17:13では、『ヨハネのことを言われたのだと気付いたスィニーミ)』。


 つまり「悟る」とは、「主が言ってるのは何のことか御言葉は本当は何を教えているのかに気付くこと」なのだ。
 例えば、『右を打たれたら左も……』という教え。これは、律法主義を否定する為の教えであって、そんなことをクリスチャンに要求しているのではない、ということ。そういうことを悟らなければならないのである。それを悟らないから、実を結ばないのだ。


 少なくとも、聖書は、錬金術のようなこと(金持ちになれる、とか)を教える本ではない。聖書は、永遠の命への道を教える本である神は信じる者にそれを約束している。だから「恐れるな」「神に信頼せよ」「いつも共にいて助け守る」と言っておられるのである。


 神が何をおっしゃっているかを悟る、それが「良い地」であり、そうすれば豊かに御霊の実(愛・喜び・平安……)を結ぶ。

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