預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇49

 「どうして私は恐れなければならないのか」と詩人は言う(5節)。それは「主よ、何故ですか!」という嘆きかと言えばそうではない。続く7~9節には「人は必ず死ぬ」「命は買い戻せない」という事が言われている。つまり、文脈としては「豊かな富を誇る人などから中傷されても、どうって事はない。人は必ず死ぬ」という事だ。「彼らは、自分達と同じような人間が滅びるのを見る」「これが愚か者共の道」だ、と10~13節に続く。「しかし神は私の魂を黄泉の手から買い戻される」と15節。「だから恐れるな」と16~17節。つまり、5節の「どうして恐れなければ……?」は、恐れて嘆いて、主よ、と訴えているのではなく、何故、恐れる必要があるだろうか、という事なのである。
 そこで、この詩は、全ての人に対して訴える。「聞きなさい」(1~2節)と。教えてあげましょう、と。さあ、あなたもですよ、と。何を教えようというのか、それは3~4節だ。まず「知恵」は勿論、神を恐れる事だ。加えて詩人は言う。「私の謎を解き明かそう」と。果たして、この人は何者(謎の人)なのか。いや、どんな人にも謎はある。秘密や隠してる事ではない。理解に苦しむ事とか、納得出来ない事とか、何故、こんな事になってしまうんだ、という様な事だ。つまり、人生の不条理・理不尽という様なものを解き明かそうと言うのである。
 それは確かに、多かれ少なかれ、誰にでもある事だろう。しかし、それをどうやって解き明かすと言うのか。それは「たとえに耳を傾けて」だ。「たとえ」のヘブル語はマーシャルで、箴言、格言、教訓という意味だ。すなわち、神の教えに耳を傾けるなら全ての謎が解けると言うのである。それを知らなければ「黄泉に定められ」滅びる(14節)。しかし耳を傾けるなら、神が受け入れて下さる。すなわち、その人生を神の栄光の為のものとして下さる訳だ。そして魂も救われる(15節)。だから「恐れるな」と16~20節。これが答えだ。
 たとえ地上の人生が豊かになっても「悟りが無ければ滅び失せる獣に等しい」(20節)と言う。悟りは、神の教えに耳を傾ける事によって与えられる。そして聖書は教える。この世の栄華を目指すのではなく、天の御国を目指し、神と共に生きる生き方をすべきであると。

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