預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇48

 「シオン」は、エルサレム(その住民)、あるいは、ソロモンが建てた神殿のある丘をシオンとも呼ぶ。いずれにしてもごく狭い範囲である。そのシオンにおいて神は大いにほめたたえられるべき方だというのであるが、はて、神は全地でほめたたえられるべきお方ではないのか。そう、ここで言うシオンとは、単なる丘などの事ではない。実に、旧約の出来事は新約で示される神の御心のモデル(模型)であるのだから、シオンも何かを示し教える為のモデルなのだ。
 そこで、4~8節では「神の力による救い」が語られている訳だが、それをイスラエルは先祖代々語り聞かせられて来た。そして、その聞いてた通りの事を自分の目で見て体験したと言うのである。かつてと同じように神の力で救われた、それがシオンだという事だ。それは、神は変わる事の無い方だという事の証明であり、神の計画は必ず成るという事でもある。加えて、神は昔だけでなく今も生きて働かれるという事だ。だから詩人は『私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました』と言い、祈る(9~11節)。「救いを喜び、恵みを感謝し、神の義と憐れみを求めるリアルな感情のほとばしり」が礼拝を活き活きとさせる。逆に言えば、それが無いと、礼拝は形骸化し、祈りは消失する。しかし私達は、内住する御霊なる神に力強く働いて頂きたい。そこで詩人は言う。かつての出エジプトの時のように神の力で救われたシオンを見よ(その救いの業を心に留めよ)と。私達も同じプロセスで救われた者(シオン)として、自らの救いの体験を思い出そう。信仰生活における神の恵み・守りを数えよう。それは『後の時代に語り伝えるため』だ。「神はとこしえに(死を超えて)導かれる」と。地上で生きている間だけ何かの御利益があるのではない。死んだ後も、死を超えて、永遠の御国にまで、とこしえに導いて下さるのだ。それが聖書の言う所である。私達はそれを聞いている。そして、その聞いた通りをそのまま自分の目で見、体験するのだ。それがシオン(神の力で救われた神の民)である。そのシオンにおいて、神は大いにほめたたえられるべきなのである。だから私達は、神の恵みを数え、喜び味わおう。そのような生き方が証となるのだから。

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