預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇47

 他の詩と違い、47篇には嘆き、呻きというようなものが無い。皆無だ。あるのは、ただ勝利。ヘブル人をカナンの地に導いてくれたいと高き神を誉めよと言う、この詩は実に神の勝利の詩だ。
 ただ、その時、神がどんな奇跡を行ったのかなどという事は問題ではない。何故なら、旧約の出来事は、新約で示された神の御心(救い)のモデル(模型)だからだ。ゆえに重要なのは「神が民を約束の地に導いた」という事実なのである。それは本当の約束の地(天国)へ神の民を導き入れる事のモデルなのだ。そして、それこそ神の(神は常に勝利を取るお方だが)最終的勝利なのである。
 裏返せば、サタンの攻撃は常にあるという事だ。始まりはアダムとエバへの誘惑を通して。しかし、その時から神は勝利の計画を始められた。それが原福音だ。そしてその計画の実現、それがキリストの十字架である。それはサタンの勝利などではなく、神の計画の成就・勝利なのだ。この神の勝利を歌え、とこの詩は言うのである。
 注目は9節だ。「国々の民の尊き者達」とは誰か。地位の高い人か。いや、神の目に「尊い」と見える人だ(参照イザヤ43:4)。それは、どの国の民であろうとも、神の愛(十字架)を受け取って、神の民とされた人達である。そのような、真のイスラエルが天国に集められるという事だ。すなわち、救いの完成である。それこそが、勝利なのだ。
 それまでは、クリスチャンは世にあっては、敗者のようであるかもしれない。病が、迫害が、苦しみがあるかもしれない。しかしクリスチャンは「何も持たないようでも全てを持っている」と聖書は言う(Ⅱコリント6:10)。喜びも愛も、平安、永遠の命、希望も、必要なものは全て持っている。そして究極は救いの完成(完全なる勝利)だ。その約束(確信)を持たなければ、全ては虚しい。たとえ全世界を手に入れても真の命を失えば何の得があるか、と主が言われた通りだ。天国の約束と確信があってこそ、今の幸せである。
 地上の力、栄誉も神のもの、神は大いに崇められる方、と10節は言う。私達も神を崇めよう。そして、主の助け・恵みをかみしめて、勝利の道を主と共に歩もう。

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