預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇50

 神は、御自身が審判者としてイスラエルを「告発する(新共同訳)」(新改訳では、戒めよう)と言う。その証人として、天と地を呼び寄せる、と。その告発の内容は8~13節だ。ここで神は「いけにえが欲しいのではない」と言う。民が年貢を納めていない(神のものを盗んでる)と怒っているのではない訳だ。そもそも、獣も山の鳥も全ては神のものであり、人間から与えられる必要は無い。神には足りない事など無いのだ。むしろ、いけにえは一応、キチンと捧げられている(8節)。だが、問題はそこではない。神は言う。欲しいのは感謝であり、誠実だ、と(14節)。つまり、物ではなく心だという事である。ホセア6:6に『わたしは誠実は喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ』とある通りだ。民が神を知らないのではない。神を恐れない(侮っている・敬わない)で形だけのいけにえを捧げる事が問題なのだ。神を敬い従う、それが神に対する誠実であるのだから。ゆえに「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」(伝道者の書12:13)と聖書は言う。そのような誠実な者に神は助けを与える(詩篇50:15)。しかし、神を知りながら神を侮る者(悪者)を責める。彼らは、神を自分と等しい者と思っている。すなわち、神がどのような方であるかを忘れている。神は『きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方』(Ⅱサムエル22:27)、侮られる方ではないのだ。
 神が喜ぶのは、悔い改めた心、誠実な心。感謝と喜び、その心を求めているのである。それこそが「霊と真による礼拝」だと言える。
 人間相手なら、心を込めなくても形だけで誤魔化せるかもしれない。しかし、神に対してもそう考えるなら、それは、神を自分と等しい者とする事だ。イスラエルはそれゆえに神に告発された。
 私達は神を忘れてはいけない。神がどんなに憐れんで下さったか、どれ程恵んで下さったか、を。そして、初めの愛を忘れずに、真心からの礼拝を捧げよう。この礼拝がいつも感謝と喜びに満ちたものとなるようにと願おう。それが「道を正しくする」事であり、その人に『神の救いを見せよう』(詩篇50:23)と神は言う。

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