預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇51

 「ただ、神様にだけ罪を犯した」とダビデは言う。彼は偶像を拝んだのか、それとも神を呪ったのか。いや、他人の奥さんを奪い、その夫(自らの部下ウリヤ)を殺したのだ。被害者はウリヤである。ダビデはウリヤに対して罪を犯したのだ。勿論、それは神の前に罪である。しかし「ただ、神様にだけ罪を犯した」とはどういう事か。ウリヤに対しては何も悪かったと思っていないのだろうか。問題は、神は、この詩を通して何を言いたいのかを読み取る事だ。
 実は、この51篇は50篇の続きではないかと言われている。50篇は、神の民を告発する(神を忘れている、という)裁きのメッセージであり、それに応答しての悔い改め、それが51篇という事だ。だから1~13節まで「どうか赦して」と訴えるのであり、「ただ、神様にだけ罪を犯した」というのは、50篇で指摘されている通り「神の民が神を侮った」という事で納得出来る。つまり、この詩は「ダビデの悔い改め」を用いての人間への預言的なメッセージだという事だ。そのメッセージとは「悔い改めるなら救われる」(10~13節)、「救われた者は感謝し賛美する」(14~15節)、そして「神への誠実こそ神に喜ばれるいけにえである」(16~17節)という事である。それでこその18節だ。これがもし、ダビデが単に「自分の王座を守って下さい」と言ってるのなら、都合が良過ぎる。「ウリヤの魂を守って下さい」と願う事こそ悔い改めだろう。しかし、これは10~17節の文脈の中で読むなら(シオンもエルサレムも、天の都を意味する場合もあるゆえに)18節は「天の都(神の支配)を確立して下さい」という意味に読めるのである。
 いずれにしても51篇は、裁きに対する応答(悔い改め)の詩だ。裏返せば「何が神に喜ばれるか」という事である。それは、砕かれ悔い改めた心、感謝、賛美……神への誠実である。だから私達も、見せかけの信仰ではなく、自分本位の信仰でもなく、ただ「神の御心がなる事を」のみ求める者となろう。その為にも、神の支配が確立する事を求めるべきなのだ。他の何処かではなく、自らの心の中に。そこが神の国だと主は言われた。そこに満ちているのは感謝、喜び、平安、愛である。そうなる為にも、神に誠実に感謝と喜びを捧げよう。

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