預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

もうちょい旧約(伝道者の書7:16~18)

 快適さのためには、ゆとり、余裕、緩やかな部分、というものが欠かせない。車のハンドルで言えば、「あそび」が必要だということだ。服もそうであるように、厳密過ぎてもルーズ過ぎても不快となる。『過ぎたるは及ばざるがごとし』という言葉の通りだ。
 さて聖書も、正し過ぎてはいけない、悪過ぎてもいけない、知恵があり過ぎてはならない、愚か過ぎてもいけない、と言う。かと言って中途半端でチャランポランでいいという訳でもない。これは実は、豊かな人生を得るための秘訣を教えているのである。そして、それは神様ご自身から学ぶことが出来る。
 まず、神様は、あくまでも正しいお方である。ゆえに罪を裁かなければならない。罪が裁かれてこそ正義である。ただ、もし、正し過ぎるほど正しくて、問答無用で一刀両断の元に裁きを下されるなら、私達人間は、とっくの昔に滅ぼされていただろう。本来なら、それが「正しい」と言わざるを得ない。しかし、神様は正し過ぎてはおられなかった。なんと、罪ある人間を赦し、救って下さるのである。
 だが、本当は、罪人が裁かれない、というのは正しくないことである。そういう意味では、神様は、愚かなことをなさったのかもしれない。しかし、愚か過ぎてはいなかった。誰でも彼でも無条件に赦すのではなく、悔い改めを求める、ということだ。ちゃんとバランスを取っておられる。これが「正し過ぎず、愚か過ぎず」ということの見本である。
 そこで聖書は言う。神を恐れる者は、この両方を会得しているものだ、と。そのために、「一つをつかみ、もう一つを手放すな」と。一つは、神の愛(罪の赦し)。それをしっかりとつかもう。もう一つは、悔い改め。それを手放してはならない。その二つが人生を豊かにする。

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