預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

いのちギリギリ

よくある質問。


「牧師さんて、日曜以外は何してるんですか?」


さあ。
他の人はどうだか知らないけど、私は毎日説教準備している。今週は、すでに4日で4つ、毎日ひとつ準備してる。それでも足りない。
例えて考えてみて頂ければわかると思うのだが、週に4つも新ネタを作る漫才師がいるかと言えば、いないのである。加えて、漫才師の場合は、作った一つのネタをあちこちで使い回せるので、効率がいい。しかし私の場合は、3か所の教会の礼拝で説教するけど、使い回しはしない。その時限りの一回こっきりの説教だ。それを目当てに聞きに来る人がいるから仕方ない。同じ話を2回聞かせることは出来ない。失望させる。だから、毎日説教準備しないと間に合わない。


出たとこ勝負で適当に話せないわけではない。そういう風にやってる人もいる。私も裁判関係の集会とか市民運動なんかでは、それでやってる。


しかし、教会の説教は、いい加減にはできない。何故なら、説教を聞きに来る人は、何らかの悩みや苦しみを抱えていて、聖書の教えから、力と励ましと救いを得たいと願っているのだから、安易な話でお茶を濁して済ますようなことはできない。しちゃいけない。中には、もう死にたいと思っている人もいたりするわけだから、聖書の言葉にあるように「その人の命の責任を問う」と言われてしまう。だから、渾身の説教を可能な限りの時間と力を尽くして準備する。


だからと言って、自分なんかの話が、何の力になるか。医者でもない、博士でもない、有名人でもない、ただの牧師だ。
唯一、そんな凡人にも出来ることがあるとすれば、それは、聖書の教えを正しく語ることだ。聖書の教えを利用して勝手なことを言うんじゃなくて、聖書そのもの、キリストのピュアな教えを伝えるのだ。混ぜ物は要らない。飲むなら水割りではなく、ストレートか、せめて、オンザロックだ。
決して、カクテル(ベースとなるお酒に混ぜ物をして作る飲み物)を否定するわけではない。それはそれで、純粋なものができる。例えば、ジンライムにしても、ある店では、ライムシロップで誤魔化すけど、って言うか、その材料をシェイクすればギムレットになるから、そうすれば本物なんだけど、とにかく私が言いたいのは、ジンライムなら、フレッシュライムを使えよ、ということだ。(むかし、そういう仕事をしていたので詳しい)


ええと、何の話を書いてるんだったっけ。
「日曜以外は何してるんですか?」だ。
そう、ロックしてるんだ。必死で。
日曜も。
そんな人生しか生きられない。
今更、世の中に迎合する生き方は出来ない。
一匹狼
はみだしっこなのだ。

           ↑ エアーズロック

×

非ログインユーザーとして返信する