預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

祈って、どんな利益があるのか(ローマ12:11~12)

 『勤勉で怠らず、霊に燃えて主に仕える』上において最も重要な、そして誰にも求められている奉仕、それが賛美と祈り、礼拝である。その中で、賛美は比較的それが容易だと言える。音楽が嫌いな人は多くない。しかし、祈りは苦手、という人は多いのではないだろうか。『祈って、どんな利益があるのか』とも、ヨブ記(21:15)にあるほどだ。けれども、いや、だからこそ、絶えず祈れ、と聖書は言う。何故か。
 勿論、私達は信じる。祈りには力があると。ただし、それは、「私達の祈り」に力があるのではなく、「祈りを聞かれる神様」に力があるということを忘れてはいけない。そうでないと、自分自身が「祈りという全能の力を手に入れた」「自分が祈れば何でも願い通りになる」と勘違いしてしまいかねない。
 とにかく、人間でさえ、世界の運命を左右できる。地球を破壊することさえ出来てしまう。ならば、全能の神が何も出来ないはずがない。それどころか神は、私達人間には変えることの出来ないものを変えることが出来る。それは、私達自身の「心」だ。それは自分ではなかなか変えられない。時にコントロール不能になる。しかし、祈ることによって、私達の「心」が、神の御心に近づけられて行くのである。ゲッセマネの園で主が3度祈られた時のように。
 誰もが幸せを求めている。そして、本当の幸せ(永遠の命、変わることのない平安)は、神の御心に従うときにこそ実現する。しかし、祈らないなら、私達の心は、神の御心からかけ離れたままであり、それゆえに、幸せが自分のものにならない。ヤコブ4章は、それを教えている。だから『絶えず祈れ』と聖書は言う。
 ルカ18:41で、主は、憐れみを求める一人の盲人に言われた。「何をしてほしいのか」と。言わずとも分かっているはずである。しかし、主は「言葉に出して言う」ことを求められる。すなわち、祈りだ。その御心に従って、怠らず霊に燃えて祈ろう。

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