預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

礼拝を休んではいけないと考えてはいけない(マルコ12:28~31)

 「神様を第一にしなさい」と教会では教えられる。ただ、それをもし、「礼拝を休んではいけません」という意味だと捉えるなら、それは律法主義となり、礼拝が苦行となってしまう。
 主は言われた。「安息日にしていいのは、殺すことか、生かすことか」と。つまり、大事なのは、「どちらが神の御心に適うのか。どちらが、より神の栄光となるのか」ということだ。それを追求することこそが「心を尽くし、知力を尽くして神を愛する」ことであり、神を第一とすることなのだ。そして、それが最も大切な戒めなのである。
 さて、そこで「戒め」であるが、それは何故、必要なのか。勿論、それが大切なことだからだ。だが、どんなに大切でも命令する必要のないこともある。例えば、息を吸うこと、吐くこと。それをしないと死んでしまうほど大切であるが、誰もそれを命令したりしない。何故なら、命令されなくても、みんなしてるし、放っておいても、練習しなくても、寝ながらでもできるからだ。ということは、戒めや命令が与えられるのは、自然にはできないから、無理にでもさせなきゃやろうとしないから、放っておいたら益々しなくなるからだと言える。
 そこで、「神を第一とせよ」が一番大切な戒めだということは、それが一番難しいということでもあるだろう。だからこそ、放っておいてはならない戒めなのである。そもそも人間の性質は、力を尽くしたいと願うのではなく、力を抜きたい、楽をしたい、と願うものである。だからパウロは言う。私は自分の体を打ちたたいて従わせます、と。私達も、心と思いと力を尽くすだけでなく、知性をも尽くして、神を愛することを求めよう。すなわち、何が神の御心に適うのか、何がより神の栄光となるのか、を考え、突き詰めていくことである。

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