預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

製造者責任法〈PL法〉(ガラテヤ5:1)

 神様が私達をクリスチャンへと導いたのは、私達に自由を与えるためであると聖書は言う。そう、クリスチャンになるということは、罪と死から解放され、呪いや祟り、偶像の束縛からも自由になることなのである。
 ただ、自由というものは、ルールがあってこそ成り立つものであることを忘れてはならない。例えば、もし交通ルールがなければ、それは混乱を招き、破滅に至る。
 ところが、命の問題に関しては、世の中にはルールがない。殺人に対しての罰則はあるものの、「殺人そのものを禁止」とは定められていない、それが法律である。何故か。たとえば自動車なら、人間が作ったものであるから、人間がそのルールを定めるべきだし、安全に稼働するようにする責任がある。言わば、PL法だ。実際、人間が「良い」と思うままに自由に交通ルールは作られている。しかし、命は神様が造ったものだから、命に関してのルールを定める権利と責任があるのは造り主なる神様だけなのである。それゆえに、神の言葉・聖書は、権威をもって宣言する。「殺してはならない」と。
 そのようなルールを持たない(すなわち、神なしの生き方をする)世の中は、当然、混乱し、破滅に至り、心の中も荒んでしまうのである。
 ゆえに私達は、聖書を人生の規範とすることが必要だ。そうすれば自由になる。
 そこで聖書は、『ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい』と言う。せっかく自由にされたんだから、2度と奴隷に戻ってはならない、と。つまり、もはや死と罪に抗えない奴隷のような生き方をするべきではない、地獄を恐れる必要はない、偶像を拝む必要はない、ということだ。そのために、御言葉の教えにしっかり立とう。御言葉は揺らぐことがない。真理の御言葉は、あなたを自由にする。

×

非ログインユーザーとして返信する