預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

しつこく祈れば聞かれると考えてはいけない(ルカ18:1~8)

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」



 この「たとえ」の目的は明らかであって、『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために』語られたものである。
 ただ、注目するべきは、6節で主が言われた通り『不正な裁判官の言っていること』である。彼は何を言ったのか。彼は、やもめが余りにもうるさいので『正しく裁判をしてやろう』と言った。これは驚くべきことである。彼は『神を恐れず、人を人とも思わない』と自分で言うほどの「人でなし」であり、同時に権力者でもある。つまり、邪魔者を始末するぐらい平気で出来るはずなのに、『うるさくて仕方ないから殺してやろう』とは言わず、『正しく裁判をしてやろう』と言ったのである。これは考えられないーー彼のような人物には期待することの出来ないーー奇跡である。
 そこに注目しなさい、と主は言われる。あの、人でなしの裁判官でさえ、何かの気まぐれか奇跡で『正しい裁判をしてやろう』と言うぐらいなら、ましてや神はーーシブシブではなく、祈りがしつこくて五月蠅いから仕方なく、でもなくーー必ず正しく裁いて下さる、ということだ。
 ただし、「そうか、わかった。あきらめずに祈ればどんな願いも叶うんだ」と考えてはいけない。ここで教えられているのは、あくまでも「義なる神は、必ず正しく裁いて下さる」ということなのである。その裁きとは、「キリストを信じる者は無罪と宣告され、天国に入る」ということである。
 だから、地上では、患難があり、病があろうとも、失望しないで、主の来られるのを待ち望みつつ、いつも「御国が来ますように」と祈るべきなのである。それを教えるための「たとえ」だ。 決して、「しつこく祈れば聞いてくれるかも……」ではない。諦めないで、天国の確信をもって主を信頼して生きる人に、必ずこたえて(裁いて)下さるのである。
 だが問題は、主が危惧されているように、『その信仰を持っている人がいるだろうか』ということだ。
 7節にあるように、私達の祈りに対して、神は『いつまでも放ってはおかない』 が、しばらくの間、放っておかれる場合がある。実例として、新約聖書で使徒たちは、主の再臨はすぐだと思っていたことが明らかだ。しかし、その時は延ばされている。主の憐みのゆえに、一人でも多く救われるため、同時に、最善の時を計るためにである。あとは、それを信じて、待てるかどうか。
 主が来られる時(神の訪れの時)まで、信じて待つ(祈り続ける)者となろう。神の裁きは、必ず成される。

×

非ログインユーザーとして返信する