預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

病を癒すことが目的ではない(マタイ8:1~3)

8:1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
8:2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。



 主は『お心一つで』病を癒すことが出来る。英語の聖書では『if you are willing』、つまり、主が意志を持つだけで(治してあげようと心で思うだけで)病は癒されるということだ。それでイエスは『わたしの心だ』(I will)と言って、癒して差し上げられた。
 ところが実際は主は、心で思うだけでなく、わざわざ手を伸ばし、皮膚病の人に触られた。何故か。
 ツァラアトは伝染性の皮膚病であり、触ればうつる。ゆえに忌み嫌われ、けがれているとされ、隔離され、ただ寂しく死ぬのを待つのみであった。それがどれほど絶望的なことであるか。
 人間にとって最もつらいのは、愛されないことである。愛を求めて生きているのに愛されないということは心に大きな傷を負う。だから、嫌われて、汚いと言われて、閉じ込められていた、この皮膚病の人は、その爛れてドロドロの皮膚以上に心の中がボロボロだったであろう。
 主は、そんな彼を癒してあげよう、と思われた。勿論、体の病など、触れなくても、そう意志するだけで癒せる。しかし、単に皮膚がきれいになるだけでは彼の問題は解決しない。無視され、忌み嫌われてきた彼の苦しみを慰め、心をも癒す為に、主は手を伸ばして彼に触られた。そうすることが「わたしの心だ」と言いながら。
 イザヤ61:1には、「救い主の遣わされる目的」が預言されている。それは、まず、貧しい者に良い知らせ(福音)を伝えるため。そしてもう一つは、心の傷ついた者を癒すため、なのである。そこへ私達を導くため(悔い改めて福音を受け入れるよう)に働かれるのが、慰め主なる聖霊だ。勿論、病の癒しなど神には造作もないことだろう。しかし、救い主が来られたのは、そんなことが目的ではないのだ。
 多くの人は心に傷を持っている。それが人生を苦しめる原因となっている。しかし主は、その傷を癒し慰めて下さるお方だ。ご自身の御霊によって私達に触れて下さるのだ。恨みや憎しみの心が溶かされて、心の苦しみ痛みが癒される。それは人間の知識や理屈では出来ないことである。しかし、主は『不思議な助言者』ワンダフル・カウンセラー(イザヤ9:6)と呼ばれるお方。このお方に触れられることを求めよう。そうすれば主は、ご自身の御霊によって触れて下さる。

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